未完成―第一章―4 つね様




―4―



時間が流れていく。

今が過去になり、未来が今に。

過去は色褪せ、未来は現実の色を帯びる。

でも、灰色の現在(いま)よりも、

剥がれ落ちて、所々ボロボロになろうが色彩を帯びた過去の方が、ずっと輝いて見える。










西野がパリに発つまではあっという間だった。

そのあっという間の時間の中、僕は西野のことを何度も抱きしめた。

何度も何度も。

西野の中の僕が、離れている間に無くなってしまわないように。

もしかしたら、そんな願いを込めていたのかもしれない。

そして、出発の前日、僕らは二人だけの夜を過ごした。






「へへ…、やっぱり開いてたね。ここ、まだ直してないんだ」

悪戯っぽく微笑みながら西野が寒空に冷え切った窓を開ける。

二人で誰もいない校舎の中へと飛び込むと、先に着地した西野が僕に向け「不良だ」と言って笑った。

「うん、不良だ」

僕は静かにそう答え、目の前に立つ少女を正面から見つめる。

スエード地の白いロングコートに身を包んだ姿が青白い月明かりに照らされて幻想的に映る。

思わず夢の世界へ飛び込んでしまったのかと錯覚を覚えてしまう。

そんな綺麗な姿を何も言わずにしばらく見ていた。

彼女も視線を逸らさずに、僕をじっと見つめ、そのまま、唇だけを動かして静かに呟いた。

「あの時以来だね…。私の誕生日に、一緒にここに来て…」

「…うん…」

誰もいない保健室、二人の声が静寂に溶け込む。

あの時は、恋人同士ではなかった。

だけど、一歩先に踏み出そうと、もっと西野のことを知ろうと、

そう思って、西野を抱きしめた。

溢れそうな想いと、体を飛び出すほどの鼓動に身を任せて、西野を保健室のベッドで抱きしめた。

歯止めをかけるものが何も無ければあのまま、二人は身体の関係をもっていたのかもしれない。

だけど彼女の母親からの電話で、それは遮られた。

…後悔はしていない。

…残念な気持ちも無い。

結局二人はそういう関係になったのだから、などという安っぽい考えではなく、

確信にも似た気持ちがそこにはあったから。

…あの時、関係をもたなかったからこそ、現在(いま)がある。

きっと西野もそう思っているだろう。

だけど、もう一つ真実があるのも事実で、

今、僕と西野は、付き合っている。

恋人同士だ。

お互いに想いあう、恋人同士だ。





向かい合ったまま、立ったままでの思い出話が一段落すると、西野は僕を見つめる目を細めた。

それは慈愛に満ちた母親のようなまなざし。

どこまでも優しく、愛しい、寂しげな、美しいまなざし。

「…今、あたしの目の前に、確かに立っている…」

いつの間にか距離が縮まっていた。

「…淳平くん。あたしの大切な人…。あたしの、大好きな人…」

僕の頬を撫でて、優しく、そう呟く。

「…淳平くん…。優しい響き…特別な響き…。…不思議…」

少し緑がかった潤んだ瞳が、月明かりを含んで、ゆらゆらと輝いている。

頬に触れたまま、見つめられる。

あまりに綺麗で、色っぽかった。

いやらしさは無く、その声と姿は神々しくさえあった。

緊張と恍惚の狭間で、不思議な感覚に囚われる。

そして一言、西野はポツリと呟いた。



「…大好き。」



















月明かりはすべてを幻想的に映し出した。

でも、もしかすると、それはここにいる一人の少女の所為なのかもしれない。

…それは多分にあるだろう…

そう思い、目の前の少女に目を向ける。

一糸まとわぬ、幻想の少女へ…



身に付けていた最後の布がストンと冷たい床に落ちた。

背中を向けていた彼女がゆっくりと僕のほうへ振り返る。

青白い月明かりと石油ストーブの光、その両方に照らされて、

地面に向けてだらりと伸ばした右手の肘を左手で掴んで少し俯く。

控えめに恥らうその姿を、僕はこの上なく愛しいと感じた。

抱きしめようと、歩み寄る。

「…待って」

その歩みを西野の声が止めた。

一瞬の戸惑い。西野が語りかける。

「…しばらく会えないから、…見て欲しいの…」

最初は何のことか分からなかった。

西野は繰り返す。

「…あたしの身体を、見て…、…会えなくても、決して忘れないように…」











月明かりに照らされた、あまりにも綺麗な姿を、僕は今でも鮮明に覚えている。

あんなにも幻想的で、妖艶で、無垢で、美しい女性の姿を僕は見たことが無かった。

そして、それは今でも…








一糸まとわぬ西野の身体を、触れることもなくずっと、ずっと見つめた後、

いつもより長く抱き合って、いつもより強く求め合って、

「しばらく会えないから、特別だね」と、

そう呟いた無邪気な笑顔が、今も忘れられない。



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