未完成―第一章―2 つね様
―2―
「西野つかさ」
彼女と出会ったのは中学三年の冬。
とんだ勘違いから始まった二人の交際、僕はその時はただひたすらに可愛いその容姿に惹かれるばかりで彼女の外面しか見ていなかった。
中途半端な気持ちで続けていた付き合いには当然のことながら終わりが来る。
別々の高校に通いはじめてから一年目の冬、僕は彼女の家で彼女から別れを告げられた。
彼女は間違いなく僕を真っすぐに見ていたのに、僕が見ていたのは彼女だけじゃなかった。
夢を語り合った中学からの同級生、高校で出会った男勝りで活発な女の子。
複数の女の子に好かれることが心地良くて、みんなに良い顔をして曖昧な態度をとり続けた結果だった。
「好きな子を一人に絞れない」
「三人の想いすべてを大事にしたい」
「俺だって三人のことを真剣に考えてる」
綺麗事を言いながら心の中ではいつも自分をかばって、自分の都合のいいように考えていた幼稚な自分がどうしようもなく憎い。
西野と別れ、違う高校の西野とだけ離れ離れになり、それでも紆余曲折を経て高校三年生の秋、僕は再び西野つかさと交際を始める。
それから僕は西野を真っすぐに想った。多少の心の動揺ならば断ち切れるくらいの精神力はついていたし、何より西野が好きだった。何があってもこの時のこの気持ちは嘘じゃない。
だから目一杯西野を想った、未熟なりにも。
そして僕は、初めて女性を抱いた。
「嘘ついたの…淳平くんのことが好きだから」
暗闇の世界から抜け出すと目の前にはパジャマ姿でベッドに寝転ぶ西野の姿。
…またこの場面からか…
飽きるほど見た夢はいつもここから始まる。
高校三年の秋、僕が通う高校の文化祭の日の夜。
僕は西野の家に来て、西野の部屋にいて、そして西野のベッドの上で西野に覆いかぶさっている。
まだ肌は触れてはいないが手を伸ばせば西野の頬にも、肩にも、胸にも手が届く。
…胸の鼓動が高鳴っている…
興奮しているのか、緊張しているのか、よく分からない。それはおそらくどっちでもあるのだろうということにしばらくしてから気づいた。
様々な感情が入り交じって、とても冷静にはなれない。それはきっと、これから自分と西野の間に起きることがそれとなく分かっているから。
西野は僕の顔を恍惚とした表情で見つめている。見つめられることがこんなにも嬉しくて、恥ずかしいものだと感じたのは初めてだった。
潤んだ瞳に吸い込まれるようにして自然と西野との距離が縮まっていく。
そして互いの唇が今にも触れようとした時、西野が何かに気づいたように「あっ」と声を上げた。その瞬間、触れようとしていた手が止まった。
…ここまできて、ダメなのか…
そんな僕の予想は見事に裏切られる。
「もう寝てることになってるから…、…電気消して…」
いたずらっぽく微笑むいつもの表情に今日は色っぽさがあった。
そうだ…、西野もこの先を望んでいる。
月明かりがカーテンの隙間から微かに差し込む暗がりの部屋の中、僕はたどたどしい手つきで西野のパジャマのボタンを外してその肌に触れた。
…体温が違う…
頭で考えるのではなく、直感的にそう思った。
他人を感じた瞬間だった。
今、僕は自分とは違う人に、触れている。
「淳平くんの手、あったかいね」
愛おしそうに西野が言う。
その声は胸をそっと包み込んで、優しい気持ちにしてくれた。
自分を求めてくれる、受け入れてくれる西野が愛しくて愛しくて仕方がなかった。
僕は西野と数え切れないほど唇を重ねて、飽きるほどその身体を抱きしめた。
胸の高鳴りはいつになっても止むことはなく、それでもやがて、緊張にも慣れていった。
「…西野…」
「…うん…いいよ…」
ささやくように名前を呼んだ声に答えた西野の声が合図だった。
割れ物を扱うように優しく、いたわるようにそっと袖に手を触れる。
微かな衣擦れの音。
僕は彼女の身体から抜き取ったものをそっとベッドの上に置いた。
目の前には一糸まとわぬ西野の姿。
「…綺麗だよ、西野…」
暗闇の中で白くなめらかな肌、華奢でしなやかなその身体が月明かりに照らし出される。
決して豊満ではないが女性らしい身体は、言葉通り、綺麗だった。
ベッドの上に座り込んだ西野は恥ずかしそうにはにかんで俯く。
向かい合った僕はそんな西野を抱きしめ、ゆっくりとベッドに寝かせた。
「…つかさ…」
いつの間にか彼女をそう呼んでいた。
優しさと愛情を持ち寄り、肌を重ね合わせる。
もう秋の夜だというのに汗が吹き出し始めていた。
すでに呼吸は熱く、荒い。
西野の綺麗な金色のセミロングの髪は湿気を含んでしっとりと流れ、肌は上気し、瞳は潤いを増している。
互いの息遣いが入り交じる中、彼女の頬を一筋の涙が伝ったのを僕は見逃さなかった。
その瞬間、僕はひどく動揺した。
…必死に我慢してくれているだけでやっぱり辛い思いをさせているのだろうか…
そう思うと胸の奥がツンと痛かった。
西野は大丈夫だと言ったけど、やっぱりこんなこと…
「…西野…ごめん…」
知らぬ間に声に出してしまっていた。すぐに謝る癖はこんなところでも変わらない。
だけど西野は…
「…いや…違うの…」
「…嬉しいんだ…淳平くんとこうして…」
「…本当に良かった…大好き…淳平くん…」
そしてまた一筋涙が零れる。
胸をついたのはさっきとは別の感覚だった。
「…つかさ…俺も好きだよ…」
西野が愛しくてたまらない。熱いものがどうしようもないぐらいに込み上げてきた。
言葉が見当たらなくてもう一度言い直す。
「…大好きだ、つかさ…」
西野は目をキュッと閉じて小さく頷いた。
その瞬間、また涙が溢れ出した。
何故だか僕も泣きそうになった。
疲れ果てると寄り添って布団の中に寝転んだ。
触れ合う身体が温かくて、何とも言えない安心感をもたらしてくれた。
隣というにはあまりに近い距離で、西野がゆっくりとささやき混じりに言う。
「ねえ…」
不意な呼びかけに思わず耳を寄せる。僕は「何?」と尋ねた。
「…もう一回名前呼んで」
恍惚とした微笑みで西野は言う。
「…つかさ…」
「…もう一回…」
目を閉じて、西野が僕にねだる。
「…つかさ…」
「…もう一回…」
「…つかさ…」
「…大好き、淳平くん…」
暗闇の静けさの中、大事につぶやいた言葉が僕の口を離れて宙に浮かんでいく。
名前を呼ぶとそれだけで西野は幸せそうに微笑む。
そんな西野を見ているのがたまらなく幸せだった。
僕はこの時思った。
一生この人を愛していこうと、そう強く。
何故この誓いが守れなかったんだろうと今でも後悔に駆られる。
僕たちだけは違うと思っていた。変わらないままでいられると思っていた。
この気持ちさえあれば、二人がどれだけ離れた場所にいようとも、いつまでも繋がっていけると、そう信じていた。
西野がパリに行くことを正式に僕に告げたのはこの年のクリスマスイブだった。
見飽きた夢の中で、また今日も後悔を重ねる。
そして思い出は今夜もまだまだ僕を解放してくれそうもない。
明日、朝目が覚めたら、どこかへ出掛けてみよう。
今更、何が変わる訳でも無いけど…
意識だけの世界でふとそう思った。
眠っているのに、涙が流れた気がした。
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