〜君に贈る〜第九話 - つね 様
扉を開け家から一歩踏み出したその瞬間、世界が変わり、吸い込まれそうな暗闇が俺達を迎えた。
別世界……その中では小さな外灯や星空がより際立っていた。
そして二人が向かった先には幻想的な世界が広がり…
飽きることなく飛び交う光、波の音、明けぬ暗闇、続く星空。
それらのものがすべて、そこに永遠を創り出していた。
〜君に贈る〜第九話『ほたる』
家に帰ると玄関までいい匂いが立ち込めていた。
俺と西野は襖の開いた座敷の中にひとまず荷物を置いて台所へ足を進めた。
「ただいま、おばあちゃん。ごめんね、遅くなって」
まず先に西野が顔を出し、時子さんに声をかける。
「あら、おかえり。ちょうど今御飯ができたところなのよ。ちょうどよかったわ」
上半身だけをこちらに向けて明るい声で時子さんが応える。
一週間一緒に過ごしてみて改めて感じたこと。
それは時子さんの若々しさだった。
最初に見たときにも思っていたことだけれど、活動的な姿はとても西野がおばあちゃんと呼ぶような年齢には見えない。
「さ、どうぞ、召し上がれ」
テーブルの上に料理が並べられる。
食事の時間は団欒の場だった。
今日の仕事のこと、ちょっとした思い出話。
大体は西野が話題を持ってきて時子さんは聞き役に回ることが多かった。
それでも西野の気持ちが空回りすることも時子さんが喋り足りないことも無いようだった。
そこには嫌な遠慮やいらない気遣いが無かった。
西野も時子さんも心から楽しそうに話している。
そんな二人につられて自然と俺も笑顔になっていた。
食事が終わると俺は自分の食べた食器を流し場に持って行き、テーブルを拭き始める。
これはこの家に住み始めてからの習慣だった。
お世話になっている以上は手伝えることは手伝わなければならない。
そんな気持ちが俺の生活をいい具合に引き締めていた。
…とは言え、机拭きと彼女たちの仕事とではあまりに時間と手間が違い過ぎた。
俺がテーブルを拭き終わったときにはまだ食器が水を弾く音と流し台の前に整然と並んだ二人の姿がある。
何やら話しながら少し楽しそうでもある二人の背中を見遣り、息を整える。
俺は妙な緊張感を感じていた。
そして今日もいつものように声をかけるのだけど…
「台拭き終わったよ。手伝おうか?西野」
振り向く姿に少しドキッとする。
「ううん。大丈夫。淳平くんは向こうで休んでなよ、ね」
…そんな満面の笑みを向けられると従うほか無くなってしまう…
…今日もダメだった…
どこか敗北感にも似た気持ちを胸に抱きながらうなだれる。
俺は居間に座り込み何をするでもなく、ただ微かに聞こえる水音と二人の話し声に耳を傾けていた。
こうして二人が洗いものを終えるのを待つ時間。
これがなんとも落ち着かない時間だった。
別に本人がいいと言っているのだから、俺は休んでいて、くつろいでいて構わない。
それでもなかなか落ち着かず、台所の音に耳を傾けながら二人の仕事が終わるのを待っていた。
「おまたせ、淳平くん」
西野のその声が始まりの合図だった。
俺は立ち上がり、西野に呼びかける。
「それじゃあ行こうか」
俺と西野は懐中電灯を一つ持って玄関へ向かい靴を履いた。
「二人とも気をつけてらっしゃいね」
時子さんは丁寧にも玄関まで見送りに。
「はい、それじゃあ…」
「うん、それじゃあ行ってくるね」
ドアを開け外に出てからもしばらく時子さんは玄関にいてくれていたようで、振り向けば目に入る明かりが温かかった。
扉を開け家から一歩踏み出したその瞬間、世界が変わり、吸い込まれそうな暗闇が俺達を迎えた。
別世界……その中では小さな外灯や星空がより際立っていた。
澄んだ空気が少し肌寒くも心地よい。
「涼しいね。いい気持ち」
西野が横に並びかけると同時に手を繋ぐ。
澄み渡った世界の中、それはごく自然な行動だった。
家の門を出て、灯台の丘まで二人のうちどちらも口を開かなかった。
二人の間の空気が気まずくなったわけでも、何を話せばいいのか分からないわけでもない。
ただ、微かに聞こえる音を、微かに感じる風を、逃さないように…
それは波の音であり、そよ風が木々を揺らす音であった。
そして、歩き始めて一分ほど経ったとき、俺は腕にかかる体重が重たくなるのを感じた。
ふと見ると西野が俺の腕に縋り、目を閉じていた。
声をかけようかと思ったけど俺はそのまま前を向き、足を進めた。
もちろん彼女は寝てしまったのではない。
きっと…
この音を、この風を、逃してしまわないように…
坂道に差し掛かるとさすがにそうはいかなかった。
それでも西野は上機嫌で周りを見回しながらゆっくり足を進める。
俺も歩幅を合わせながらゆっくりと足を進める。
そうして坂の終わりが近づいたときだった。
「あっ、蛍」
不意に西野が呟いた。
「えっ?」
今までの沈黙の所為か、心の準備が出来ていなかった所為か、驚きの声が口から漏れる。
「ほら、あそこに飛んでる」
西野の指差す方に見えた一匹の蛍は坂道に沿って丘の方に飛んで行く。
「まるであたしたちを案内してくれているみたい…」
そう呟いた西野の言葉が本当にぴったりだった。
まるで俺達を丘の上に案内してくれているかのよう、ぼんやりと柔らかな光を残しながら飛んで行く。
小さな案内人についていくようにして自ずから歩調が早くなっていく。
そして…坂道が終わると…
…坂道が終わると、そこはこの暗闇という別世界の中でもさらに別世界――――――聖域だった。
”蛍崎”の文字通りの光景がそこには広がっていた。
丘の上に所狭しと飛び回る蛍たちはそこから溢れ出しそうになっている。
それでも何かに囲われているかのように、はぐれそうになった蛍もすぐに丘の上に戻ってくる。
そこに立体プラネタリウムが出来ているよう……蛍の優しい、柔らかな光が丘を包んでいた。
そんな景色を一通り見渡してから、やっと言葉が出た。
「座ろっか」
微笑み、西野に語りかける。
「うん」と頷く西野。
俺と西野は灯台を背に、丘の中央に腰を下ろした。
その直後、再び沈黙が訪れる。
今回の沈黙は違っていた。
隣に目をやると西野は目を閉じて手を合わせていた。
その姿に四年前の夏休みの姿がフラッシュバックする。
俺はあの時と同じように彼女に見とれる。
そして…まるでリプレイのようなシーンが流れていく。
「何してるの?」
あの時と同じように、そっと慎重に尋ねた。
「お祈り。これだけ綺麗だと願いが叶うような気がして…」
目を閉じたまま彼女は答える。
「ふーん…」
体勢を変えることもなく薄明かりに包まれる彼女を見つめる。
長い沈黙だった。
そして…
「よし、終了ー!」
手を合わせたまま顔を上げ、笑顔で彼女が言う。
その声とともに過去から現実に。
その瞬間はスローモーションのように長く感じられた。
そして、目を開けた西野は俺の方に向き直り、しっかりと目を合わせ、少し間を空けて尋ねた。
「…今回は聞かないんだね…お祈りの内容」
「…うん…大体分かるから…」
「じゃあ当ててみて、何お願いしたか」
静かな会話だった。
この情景、神聖な雰囲気の所為だったのかもしれない。
無意識に西野の手を取り、体を引き寄せる。
ゆっくりと、静かに彼女の華奢な体がすっぽりと胸に収まった。
「…西野…これ、間違ってる?…」
そう言うと西野はゆっくりと頭をもたげた。
「…大体合ってるかな…」
呟くような小さな声。
その声を聞いて、身体を丸めて西野をそっと包みこんだ。
体を離すと急に照れ臭くなって俯いた。
微笑む西野の視線を感じればなおさらだった。
しばらくそのままでいたけど、想いを伝えたくて口を開く。
「西野―――」
そう言いかけたとき、西野の指がそっと俺の唇に当てられた。
予想外の行動に驚き、声が出なくなる。
西野は真剣な表情で真っ直ぐに俺の目を見た。
「その先は言わなくていい。…大体分かってるから…」
表情はそのままに、先ほどの俺の台詞を真似していつもよりも心持ち低いトーンでそう言うと、俺の首に両手をかけた。
…一瞬の出来事だった…
軽く触れるようなキス
離れた後はいつもの西野だった。
「…なんてね!」
そして西野はすぐに固まった俺の魔法を解いてくれる。
「ほら、蛍見ようよ。こんな景色なかなか見れないよ?」
打って変わって無邪気な姿を見せる西野。
そんなギャップのある行動が西野らしかった。
「…あ、ああ、そうだな」
西野に促されて海に背を向け、再び弱光が飛び交う景色に目を向ける。
柔かな光は気持ちを落ち着かせ、心を透き通らせた。
”蛍崎”―――この場所は渚ちゃんに案内され、ここへ来たあの時とはまったく違う表情を見せていた。
ここには今、幻想的な世界がある。
飽きることなく飛び交う光、波の音、明けぬ暗闇、続く星空。
それらのものがすべて、今、この場に、永遠を創り出していた。
それから二日後だった。
突然映画館に駆け込んできた渚ちゃんが息を切らしながら俺に向かってこう言ったのは。
「西野さんが病院に運ばれたんです!」、と。
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