〜君に贈る〜第十話 - つね  様




何が起きたのか分からない。


息を切らし焦りを露わにして慌てる渚ちゃんについて来た。


何も分からないまま走り出し、立ち止まったときにようやく汗が頬を伝っていることに気付いた。







〜君に贈る〜第十話『海の神様』







「西野さんが病院に運ばれたんです!真中さん、早く!早く来て下さい!」


映画館の入口で掃除をしていた俺に向かってそう叫んだとき、渚ちゃんの顔は不安と焦りでいっぱいになっていた。


俺は言葉を失った。


あまりに突然のことに状況が把握できない。


西野が病院に運ばれたという、その事実を信じたくなかった。


何も感じず、何も考えない時間がどれだけ続いただろう。


遠のく意識を引き戻したのは渚ちゃんの声だった。


「真中さん!来て下さい!早く!」


目の前の渚ちゃんにピントが合い、思考が戻る。


「…分かった…!」


ようやく言葉を絞り出し、俺はみのりさんと豊三さんに事情を告げて映画館を出た。
























移動手段は自分たちの足、つまり病院まで走るということだ。


何か他の交通手段が無かったのか。


そう問われれば、無かった訳では無い。


ただそれを探す暇、と言うよりも余裕が無かった。


それに映画館からそう遠くない場所にあるということで割り切ることもできた。




































確かに西野が運ばれたという病院はさほど遠くは無かった。


しかし、今は真夏の炎天下。


その中の全力疾走は身体に熱を持たせ、汗を流させるには充分だった。


自動ドアの前で立ち止まることも無く建物の中に駆け込むと、ひんやりとした空気が汗が伝う頬を撫でて身体が震えた。


ロビーで診察の順番を待つ人達の視線が一瞬俺の足の行き場を奪ったが、すぐに渚ちゃんの声に振り向く。


「真中さん、こっちです」


院内ということもあり、少し小さめの声でそう言うと渚ちゃんは早足で階段のほうに向かった。


俺も彼女について行き、階段を上がる。


渚ちゃんは階段を上り切ると、しばらくしてから扉の前で足を止めた。





渚ちゃんが止まった…







…ということは…











この先に…西野がいる…









静かな廊下の中で俺の足音だけが響き、そして止む。








緊張が高まっていた。










俺はドアに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。


窓から差し込む光で目の前が真っ白になった後、次第に色を取り戻す視界。











ベッドの上に西野の姿が見えた瞬間、俺は西野に駆け寄った。


「西野!起きてて大丈夫なの!?」


そう問い掛けると西野は俯き加減に頷いた。


西野の反応にひとまずホッと息をつきかけるが、俺はその仕草に違和感を感じた。


…何かがおかしい…


そう思い再び西野の様子を伺った。


それでもやはり彼女は俯いたままで、俺は特に意識するでもなく彼女の視線をなぞった。


そこで何も無ければ俺の視線もやがて行き場を無くしていただろう。


しかしそうではなかった。


俺の目の動きは上体を起こした西野の、膝の上で止まった。


俺はもう一度俯く西野の顔に目を向けると、渚ちゃんのほうに振り返った。













「…もしかして…これ…?」











苦笑いで渚ちゃんが頷き、西野の頬が赤くなる。


西野の右手の人差し指には丁寧に包帯が巻かれていた。






































後で聞いた話によると、西野は厨房で指を切ってしまい、流れ出す血を見て気を失ったらしい。


結局はパニック状態の渚ちゃんに振り回された形になったが、彼女が悪いわけでは無い。


むしろ彼女はよく報告してくれたと褒められるべきなのだろう。


西野の指の傷もかなり深かったようだが、決して深刻な状態ではなく、俺は胸を撫で下ろした。





































夏が深まり、西野は仕事に復帰した。


俺の映画館での仕事も何度かの上映を経験するなど、至って順調。


ただ覚悟していたとは言え、収入の面はお世辞にも良いとは言えなかった。


それでも不満などは無かった。


これが自分で選んだ道だから。
































変化の始まりは八月の半ば頃だった。


その日は昼過ぎには仕事が終わっていた。


なんでも夕方からこの町の夏祭りが行われるとか。


なるほど外に出れば、早くも屋台の準備であろうか忙しく動き回る人の姿も見えた。


「夏祭りか…」


そう呟き、西野を連れていこうか、と考えて微笑む。








表通りを通って帰ればいつも西野の働くケーキ屋の前を通り掛かる。


そしていつも店の様子をうかがってみるが、今日は明らかに様子が違っていた。


店の前に群がる人達。


よく見ると中にはテレビカメラや取材器具を担ぐ人も混ざっていた。


何事かと思い、すぐにその場に駆け付ける。


そして人だかりの最後尾から背伸びをしてみるが、群がる人々に視界が遮られてうまく見えない。


しばらくの間、場所を変えてみたり、また背伸びをしてみたり、


そんなことを繰り返すうちに聞き慣れた声が聞こえてきた。









「…いえ…そんなことは…」










…西野の声だ…






俺は足を止め、会話に耳を傾けた。


「それではこの番組をご覧になっている皆さんにお店の紹介をお願いします」


番組…テレビ局が来てるのか?


「とても明るい雰囲気で、馴染みやすいお店です。みなさん、是非一度足を運んでみてください」


インタビューに答えているのは確かに西野だった。


少しの間の後、「オッケーです!」の声が響き、人が散り散りに店の前から去っていき、報道関係者と西野たちの姿がはっきり見えた。


俺はすぐには近付かずに、報道関係者がその場を立ち去るまで動かずにいた。


彼等は機材をまとめると渚ちゃん、西野、店長、の順に一言お礼を言って車に乗り込んだ。


店の三人もそれに応じ、車が走り出すとお辞儀をして彼等を見送った。


俺はそれを確認して西野の元へ足を進める。


すると表通りを走り去っていくワゴン車を目で追っていた西野が足音に気付いたようにこちらに振り向いた。


「あ、淳平くん。どうしたの?もう仕事終わり?」


そう言いながら小走りで俺の方に向かってくる西野。







見慣れた白い仕事着に甘い香り。


触れ合う直前まで近づいた距離に胸が高鳴る。


先程の質問に「うん」、と頷き答えると、そこで店の入口から声がした。


「おっ、真中くん、今日は早上がりか?ちょっと待っといてくれよ。うちも今日は早く閉める予定だから」


その元気な声はケーキ屋の店長―――――そして渚ちゃんの父親でもある西崎さんのものだ。


がっしりとした体格に人柄のよさそうな笑顔。その笑顔は彼の性格をそのまま表していた。


「そうそう、今日は夏祭りだからさ、この町のほとんどのお店が早めに切り上げてお祭りの準備に取り掛かるんだって!」


ワクワクした様子で西野がそう言う。


先に祭りのことを言われてどう切り出していいか分からずにいると、西野が俺の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?体調でも悪い?」


「いや、そういう訳じゃなくて…」


アップになった西野の顔から慌てて顔を遠ざける。


「そういう訳じゃなくて…?」


するとさらに近づく西野の顔。


きっと今、俺の顔は真っ赤に染まっている。


西野にはいつもドキドキさせられっぱなしで…


俺は一旦顔を背けて、また西野と目を合わせた。





「その夏祭りだけど…西野、一緒に行かない…?」


先にお祭りの話題を出された所為か、やはりはっきりしない口調になってしまう。


驚いたわけでは無いだろうがしばらく西野が固まったようになる。


きっとサラっと言えば良いものを躊躇いがちに言ってしまった所為だろう。


先に表情を変えたのは西野の方。


「うんっ、一緒に行こうよ!誘ってくれてありがと!じゃあ仕事早めに終わらせちゃうね」


そう言って満面の笑顔を見せた。


その表情を見て俺の顔からも自然と笑顔がこぼれた。





































夏祭りの会場は大盛況だった。


どこへ行っても人だかりがあり、この町の人が全員集まっているのでは、とまで思わせた。


真夏の暑さに夜の風、半袖のシャツに浴衣に屋台のお面。


人込みの中、はぐれないようにと手を繋ぐ。


いつか…同じような場面があった気がする。









高三の夏休みだったかな?


西野の田舎に行って…


あの時もこんな風にして、二人でお祭りの会場を歩き回ったんだっけ。


西野といればいつも楽しくて…


懐かしい、でもどこか違う。


もう、あの時のような不安が心のどこにも無いから、


迷わず君を見ていられる。
































祭も終わりに近づくと、人の波ができ、一つの場所に向かい始めた。


俺達はその流れに巻き込まれてうまく身動きがとれなくなる。


「ちょっ、淳平くん!これどこに向かってるの!?」


「いや、そんなこと言われても…」


周りの人の足を踏まないようにと足元に注意を向けていてそんなことを考える余裕さえなかった。


人でいっぱいになった道の上。


その脇に俺はふと見慣れた顔を見つけた。


「あっ、時子さん!これ、どこに…」


なんてタイミングがいいんだ。こんなところにいてくれるなんて…


そう思い、声をかけるが時子さんはいつもの和やかな笑顔を崩さないままこう言った。


「大丈夫よ。私も後から行くから」


「えっ、大丈夫って…」


答え返す間もなく俺達はどんどんと人波に運ばれ、時子さんの笑顔が遠ざかる。


淡い希望は崩れ去り、謎は解けないまま人ごみに流される。


もうこうなるとこの流れに任せるほかなかった。


ただ、人込みの中はぐれないようにと握った右手に力を込めた。


























人波の終着点は浜辺の近くの護岸だった。


浜辺が近づくにつれて人々の足の進みも緩み始め、やがて止まる。


「…やっと止まったね…」


ため息とともにそう呟き、少したってからまた口を開く西野。


「でも…これから何があるんだろうね。こんなにたくさんの人が集まっちゃって…」


そして俺が応えようとした、そのときだった。













ドーン、ドドーン










体の芯まで響くような轟音が俺たち二人を海の方に振り向かせた。


「……花火だ……」


「…すごい…海に花火が映ってる…」


西野が言った通り、海上から打ち上げられた花火は海面に反射してまるで海のキャンバスに絵の具を垂らしたようだった。


そんな情景に見とれていると聞きなれない声が後ろから聞こえてきた。


「どうじゃ?すごいじゃろ」


振り返ると一人の老人が笑顔を浮かべ、背後に立っていた。


「毎年こうやって打ち上げとるんじゃがすっかり名物になってしもうて。

 しかしこれだけ派手な音がたちゃあお魚さんたちも逃げてしまうでな。

 それでも一年に一度、今日くらいは海の神様も許してくれるじゃろうて」


おおらかな笑顔でそう言った老人。きっとこの花火を、この祭りを、なによりこの町を好きなんだろうな、と思った。


「海の神様…ですか?」


考えないうちに聞き返していた。


「ああ、この町にとって海は大切じゃあ。海はいろんーな恵みをわしらにくれるでな。それこそ海の神様が恵みをくれとるんじゃよ」


…海の神様…


話を聞き終えると、自然と西野と目が合って微笑みあった。


心に触れるこの町の様々な表情。それも海の神様のおかげかな。


そんなことを考え、次々と打ちあがる花火を見つめた。







ドーン、ドドーン







静寂に響く音が山にこだましてその響きを増す。







ドーン、ドドーン





その音が途絶えるまで、誰もがその場を動かずにいた。





この花火もきっと海の神様からの贈り物だろうな。





なんとなくそう思った。




























この日を境に西野つかさの名前は次第に有名になり始める。


それが西野の望んだ形なのかどうかは分からない。


無論、テレビでケーキ屋で働く西野の姿が流れたことが原因である。


ただひとつ言えること、これがそう遠くない未来に起こるひとつの奇跡へと続く長い道のりの出発点だった。




NEXT