〜君に贈る〜第十八話 - つね 様
「一つお聞きしたいことがあるんです。私、どこかであなたに会ったこと、ありますか?」
「あるよ」
あの日の日暮さんの言葉の影響なのか、西野が変わり始めた。
まだ苦しみながらではあるけど、一歩踏み出すために、必死に足を動かそうと…
俺にはそんな風に西野に影響を与えることなんてできていなくて…
力になれなくて…
そんな自分が情けなくて、どうしようもなくて、俺は目を閉じた。
〜君に贈る〜第十八話『空に願うのは君の幸せか、それとも強い自分か…』
秋の匂いはまだまだ微かなもの。
相変わらずの残暑の中、シネマ蛍崎は今日も忙しい。
豊三さん、みのりさん、そして俺の三人だけで受付、上映準備、上映、片付けという仕事を行う。
俺が来る前まではこれを二人でこなしていたことには感服する。
そんな忙しい職場の状況でありながら俺はわがままを聞いてもらっている。
昼の12時から3時までの三時間。
これが俺が映画館から抜ける時間帯だった。
夏休みが終わった今、遠くから来る客も減っていたし、蛍崎の人達も平日は働いている。
そこで、シネマ蛍崎では12時から1時までの一時間、ショートムービーを流すことにしていた。
飲食物の持ち込みも可。
町の人達は昼ご飯を持参し映画を見に来てくれる。
ショートムービーの上映が終わるとそこでようやく休憩が入り、そこからはまた夕方の上映に向けて準備する。
そんな大事な時間に俺は映画館にいない。
「青の海」を撮りたいと、そう言ったものの申し訳なく思い、一度は豊三さんに「やっぱり仕事中は映画館にいます」と申し出た。
しかし、豊三さんの答えはこうだった。
「『青の海』、撮るんだろ?毎日丘に上がれ。それも自分が一番ピンと来る時間帯にだ。淳平、相手は伝説じゃぞ?」
そう言う豊三さんの顔は気の所為かなんだか嬉しそうに見えた。
とはいえ、ここまでしてくれる職場に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
俺は朝、出勤の時間を早め、夜は今までより遅くまで残るようにした。
そして今日もいつも通りに…
「お、今日も早いね」
「あ、おはようございます」
フィルムの確認をしていたところにみのりさんが事務室のドアを開けた。
「ありがとね。朝早くから。大変でしょ」
「いえ、お昼に抜けるんでせめてその分だけでも…」
「そっか。んじゃ、ここからは一緒にやろうか」
早出で働き始めてから、みのりさんは微笑みながらいつもこう言ってくれる。
余計な気遣いの無いこの言葉がありがたかった。
みのりさんの自然な振る舞いは何故だか俺の気持ちを温かく、落ち着かせてくれた。
そして、それから少し経ってから豊三さんが映画館に到着する。
「おはようございまーす」
「おはようございます」
みのりさんの明るい声に続いて俺も豊三さんにあいさつをする。
「おお、おはよう。今日もちゃんとみんな揃っとるな」
豊三さんはそう言いながら肩にかけた荷物を机の上に降ろした。
豊三さんが到着すると事務室の空気はグッと引き締まる。
それは決して居心地の悪いものではなく、前向きな緊張感を生み出すものであった。
厳しく叱り付けることもなく、館内で笑顔を見せることもよくある豊三さん。
それでも豊三さんの放つオーラがこの雰囲気を作り出していた。
そういえば、俺がこの映画館で働き始めた頃にみのりさんがこんなことを言っていたのを覚えてる。
「職場の雰囲気?自由だよ。あんまり縛られないし、自分の思ったことも言えるしね」
今ならその意味がよく分かる。
『自由』と聞くと、人はどんなイメージを抱くだろうか。
自由とはただ自分の好き勝手に、やりたい放題にやることだけではない。
自由である以上は自分の行動には責任を持たなければならない。
みのりさんの言った『自由』とはまさにそういうことだった。
自由であるからこそ責任が生まれ、責任があるから自分で考え、判断し、そして行動する。
そのサイクルがこの職場に根差していた。
そしてその自由から生まれた責任も重荷にはならなかった。
むしろ任せられることがやる気に繋がっていた。
自分は認められてる、信頼されているという気持ちがもっと頑張ろうという気にさせた。
『やらなきゃ』とか、『失敗するかも』といった変な脅迫観念みたいなものも、ここにはもちろん無かったから。
昼になると西野の作った弁当を持って灯台の丘へと上る。
灯台までの道程も歩き慣れたものになっていた。
いつの間にか、この町に惹かれ、この町に住み、この町に慣れて…
もし、この町に来ていなかったらどうなっていただろうか。
俺は少し昔を思い出す。
「二人でどこか遠くに行こうか」
俺達を巻き込んだ事件の中での一言。
それが俺達をこの町に導いた。
偶然にもそこには西野の遠い親戚がいて、映画館があって、ケーキ屋があって…
魅力的な人達との出会いもたくさんあった。
俺達にとって願ってもみないような環境で新しい暮らしを始め、それでもそこで西野は記憶を失った。
ここに来なかったら、西野と俺のたどり着いた先がここではなかったら…
それともここに来なかったとしても、同じように西野は記憶を失っていたのか…
そんなことは考えるだけ無駄な気がした。
だって、俺と西野は今すでに、実際にこうして蛍崎で生活をしているのだから。
時間を戻すことはできないし、過去に戻りたいと思うこともしなかった。
だけど、考えてしまう。こんな風に一人で海を眺めていると余計に。
…西野…
この道で本当によかったのか。
きっと俺はその答えを西野の心からの笑顔に求めていた。
「あ、やっぱりここにいた」
無邪気で明るい声に振り返えると見慣れた笑顔があった。
「…あ…西野…」
「お昼から休みもらったから来ちゃった」
首を傾げて微笑み、そして俺に尋ねる。
「隣、座ってもいいかな?」
「そりゃあいいけど、服が…」
「ん?ちょっとくらい汚れてもいいよ。地面も湿ってないみたいだし」
心配する俺に対し、そう言って西野は腰を下ろした。
「淳平くん、最近よくここに来てるね」
視線は目の前に広がる海に向けたままでそう言う西野。
今年は特に長い残暑、それをやわらげる潮風をその顔に受け、綺麗な金色の髪がなびいている。
俺はその横顔に思わず見とれてしまう。
「…うん。最近は…結構来てるかな」
視線を落とし俺はそう言った。
本当の目的は、西野のためだと言うことは、言えなかった。
責任感の強い西野にはそれを知らせることは負担になると思っていたから。
「でも…本当にいい場所だよね。…こんな景色の前じゃ、正直にならなきゃいけないような…」
俺は西野の言葉に思わず振り向いた。
西野は、少し俯いていた。
「西野…何かあった?」
そっと呼び掛けると西野ははっとして俺の顔を見た。
そして一度下を向いて、「そっか…」と小さく呟くと、また海に目をやり、口を開いた。
「そうだよね。何も無かった…訳じゃないから、ここでは、この場所では、嘘はつけないよね」
そう言うと少し間を置いて西野は話し始めた。
「ねぇ、淳平くん、あたし聞いたの。休み時間に渚ちゃんと店長さんが話してるの。先月、売り上げ下がったって」
「…」
「先月って、確かちょうどあたしが記憶無くした時期でしょ。だから、あたしの所為かなって。あたしがケーキを作れないから、その所為かなって…」
寂しそうな表情の西野はそう言うと、無理に笑ってみせた。
「わがままだよね。ケーキ、作らなきゃいけないって分かってて、作れないって言うなんて。ダメだよね。自分勝手だよね。逃げてるよね、あたし」
でも繕ったその笑顔も次第に消えていく。
「…西野…」
呼び掛けた言葉に、西野はこっちを向いた。
西野の目に、また涙が浮かんでいた。
「…西野…」
もう一度呼び掛けた時だった。
…ドッ…
俺の身体に振動が伝わる。
西野は灯台にもたれていた俺の胸に頭を預け、口を開いた。
「思い出せないの、大切なことが。あたしは何でケーキ作りを始めたんだろうって…。あたしがケーキを作っていたのは何でなのか、それが思い出せないの…」
「…それに…あたし、たぶん作りたいって思ってるの…心のどこかで、ケーキを作りたいって…あの日、日暮さんっていう人に会ったとき、一瞬そう思ったの…。でも…」
突然出てきた日暮れさんの名前に心がドキッとした。でもそれ以上考える暇も無く…西野の言葉が…
「ごめんね…あたし、淳平くんしか逃げ場無いんだ。でも…、そうやっていつまでも淳平くんに甘えてるから、強くなれないのかな…」
今にも消え入りそうな声で力無く、西野はそう言った。
今、こんな西野に俺ができることはなんだろう。
「そんなことないよ。西野、無理しないで…」
気の利いた言葉なんて出てこなかった。
当たり障りのないことしか言えない自分が嫌になる…
「…淳平くん…うっ……うわああぁぁ…」
それでも西野は声をあげて泣いた。
こんな風に泣く西野を俺は初めて見た。
その姿を見て、俺も泣きたくなる。
俺は、俺の胸で泣いている西野の頭を、ただただ見ていた。
今は何も言えなくて…
泣き声は次第に小さくなっていき気付けばそれは寝息に変わっていた。
俺に寄り掛かり寝息をたてる西野を見て、疲れていたんだな、と思う。
思えば、記憶を無くしてから、西野はたくさんの涙を流してきた。
いつもはあまり弱みを見せない西野が…だ。
この華奢な身体に、どれだけの不安や重圧を感じていたのだろう…
そう考えると俺が西野に何かできることが無かったのかと、自分が情けなく思えてくる。
俺はそっと目を閉じて、空へ向いた。
もっと…
もっと西野のためになれたなら…
西野に降りかかる不安なんか、全部吹き飛ばしてあげれたらいいのに…
そういえば、さっき西野が言っていた。
『心のどこかでケーキを作りたいと思っている』と…
あの時は耳に入ってこなかった………動揺してたんだ、日暮さんの名前に…
『作りたい』なんて言葉、記憶をなくした西野から聞くのは初めてだった。
俺には…そんな気持ちにさせることは、できなかったんだ…
恋人の俺ではなく、日暮さんが…
灯台にもたれかかって寄り添う二人。
薄れゆく意識の中で、温かいものが頬を伝った気がした。
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