〜君に贈る〜第十七話  - つね 様





〜君に贈る〜第十七話『風』





残暑の眩しい日差しの中、今ではもう日課となった撮影をしに、今日も俺は灯台を背に座り込んでいた。


ここに上りはじめてから、いろいろなことを試している。


初めて青の海を撮りに来たあの日のように一日中ぼんやりと海を眺めてることもあれば、自分の目には見えなくてもカメラには映っているのかもしれないと思い、何の変化も無い海をずっと撮り続けた日もあった。


いつまで経っても現れない伝説に丘の上で寝転んでしまったことだってあった。


だけどそんなときはいつだって頭に浮かぶ表情が勇気付けてくれた。













…西野…九月の始めに記憶を失ってから、


なんとか誕生日に間に合えば…そんな風に思いながらこの丘に上り続けてたけど、結局間に合わなかったね。


でも…きっと、きっといつか、西野に見せてみせるから…


あんまり偉そうなことは言えないけど…















使い古したカメラのレンズの先を見渡す。


目を凝らして、その先を、またその先を…


遠くに見える水平線は眩しく輝き、波の形まで見えるようだった。


こう言っては西野に申し訳ないが俺はいつしかこの時間を楽しむようになっていた。


見渡せばどこまでも続く海、寝転んだときの吸い込まれそうな青空、目を閉じて聴く波のざわめき。


…なんだか落ち着く…全ての生命の起源は海から…というのも分かる気がする。


…西野にも聞かせてあげたいな…


丘のはるか上空にはカモメが数匹飛んでいて、時折丘に近づいては離れたり、ぐるぐると灯台の周りを回ったりして戯れている。


そんなのどかな昼下がり。


目を閉じて、大きく息を吐き、体いっぱいにこの世界を感じる。


…気持ちいいや…


























「何サボってるのかな?」


くつろいでいたところ、突然飛び込んできた声に跳び起きた。


「あ…」


「ビックリした?」


彼女は得意のいたずらっぽい笑顔を向けてそう言った。


「…西野…」


そして髪をかき上げながら輝く海に目を移す。


「でもいいところだね…きれい…それに何だか、すごく落ち着く…」


その姿が本当に綺麗で…俺は何も言えずに、ただ見とれていた。











「と・こ・ろ・で!」


気付かぬうちに近くなった西野の顔にドキッとする。


「こんなとこにいて、仕事、大丈夫なの?」


「あ、ああ。大丈夫。館長にはちゃんと伝えてあるし、それにこれも仕事みたいなもんだから」


「ふーん。なるほどね。んじゃあ一応サボりじゃないんだ」


「一応も何も、サボりじゃないよ。それより、西野だって…」


それまで、すましていた西野だが俺の言葉にはっと振り向いた。


「あ、あたしだってサボりじゃないよ。…ここに来たらいるだろうからって…店長に…」


そして西野は少し顔を赤くして背中に回したバッグから小さな袋を二つ取り出した。


「これ…お腹空いてるかな、と思って…一緒に食べよ」













簡単な弁当であっても、相変わらず、西野の作った料理はうまかった。


記憶を失っても料理の腕はまったく衰えていない。しかし、それでもまだケーキは作っていないという。


料理がこれだけできるのであれば本職のケーキは問題なく作れそうな気もするのだけど…















「…くん、もう、淳平くんってば!」


大きくなった西野の声にはっと気付く。


気付かぬ間に自分の世界に入り込んでしまっていたらしい。


「あ、ごめん。それで…何?」


「もう…だから、……やっぱりやめた…この先言うの」


答えを分かっていながら、何で?と俺は問い掛ける。


「だって淳平くん、あたしが話し掛けても全然聞いてないんだもん。その罰だよ」


言葉とは不似合いな楽しそうな笑顔を見せながら西野は言う。


そうなるともう聞き返さずにはいられなかった。


もちろん先程の自分の行動を反省してないわけではないのだけど俺もつられて笑顔になる。


「ごめん、西野。だから教えて。何だっけ?」


他愛の無い会話だ。何の変哲も無い平和な会話。


それはその続きがこの先一瞬にして俺の気持ちを揺るがしてしまうとは想像も付かないほどに…
















「え…っとね、だから、今度一緒に蛍を見に来ようって。この丘、夏には蛍がたくさん集まってすごく綺麗なんだって。今日お客さんが話してたの」


自分の顔から笑顔が消えていくのが分かった。





西野…君は覚えてないみたいだけど…実はもう、俺たちは見てるんだ。蛍。二人で…





「ふーん…そうなんだ。じゃあまた来ようか…二人で」


笑顔を繕おうとしてはうまくいかず、俺はその表情を隠すように俯いたまま答えた。


「今の時期でもまだ見れるかな〜。もう秋だからなぁ…」


そんな風に言いながら楽しみそうな笑顔で丘に面した林を見る西野。


一時期よりも明るくなり、笑顔を取り戻した様子が喜ばしいはずなのに、何だか切なくて、複雑な気持ちが胸の中から離れなかった。































それから何日か経った日のことだった。


潮風を受ける蛍崎の街は今日もよく晴れている。


俺はと言えば、今日は平日にも関わらずいつもとは違った風景を見ていた。


「あーっ!…っと。危なかったぁ…」


先程からこんな調子で賑やかな声が時折聞こえてくる。


しばらくすると屋内であるのに軽く息を切らした声の主がカウンターの横に姿を現す。


「モンブランのお客様、お待たせしました〜!」


その声を聞いて俺の隣に座っていたおばあさんが「はいはい」とにこやかに歩き出す。


彼女は箱に入った商品をおばあさんに渡しながら「いつもありがとうございます。ケーキ一つサービスしときましたから」などと笑顔で対応する。


そんなやりとりを見ては、俺もまた自然と笑顔になっていく。


それはこのケーキ屋に来る他の客も同じで、慌ただしく動いては店長の西崎さんにお叱りを受ける彼女を誰も煙たがったりはしない。


それどころか彼女がそうして注意を促される度に店内にほほえましい空気が流れて、この空間は誰にとっても心地良いものになっていた。












「どうですか?じっと座ってて飽きません?」


ちょうどお昼時の頃、その彼女が話し掛けて来た。


清潔感のある店員用の服に身をつつんだ彼女は自然な笑顔で俺の前に立つ。


「いや、大丈夫。それなりに楽しんでるよ」


実際、今、目の前にいる渚ちゃんの動きを追い掛けていれば全く飽きなかった。


今日は豊三さんの都合から映画館の仕事が休みで、特に何もすることがなかったところを「きっと楽しいから」と渚ちゃんに誘われて来たが本当にその通りだった。


こうしてケーキ屋の角に座っているだけでここまで楽しめるとは思ってもみなかった。


ただ一つ気にならないこともないのだが…


「西野さんなら大丈夫ですよ。今も奥で働いてますから。もちろんお客さんに顔は見せてませんし。そんなことしたらまた騒ぎになっちゃいますから…」


俺の心を見透かしたように渚ちゃんはそう小声でささやいた。


どたばたしている割にこの子、勘がいい…


まあ何はともあれそれを聞いて俺はひとまずほっと胸を撫で下ろす。


西野は表向きには一応休業ということになっていた。


とはいえこの店に出入りする姿を何度も目撃している地元の人にはバレバレの休業なのだが、遠くから来る西野目当ての客にはこれが効果テキメンだったようで客足も大分落ち着いてきた。


地元の人にも『パティシエ業務の』休業ということでうまく渚ちゃんが説明しているらしい。


とりあえずは今の西野にとってのプレッシャーは少なくなった。


あとは何とかして記憶を…





























日が沈みかけた頃には渚ちゃんが店のカーテンを閉め始めた。


そして店頭に出していた看板を店の中へとしまい、ドアにかかった札をくるりと回し鍵を閉める。


いつもよりも随分早い時間帯でのその作業(もちろん毎日見ているわけでは無いのだが…)を不思議そうに見ていると渚ちゃんがまた俺のところへやってきた。


「あ、その顔…もしかして、忘れてます?今日来てもらった理由」






…えっと…なんだっけ?…





「西野さんが試しにケーキ作るから真中さんにも来てほしいって、言いませんでしたっけ?」






……あ、そういえばそんなこと……









……聞いてない……




これは本当に聞いてない。今初めて知ったことだ。


「いや、聞いてなかったけど…」


「あれ、そうでしたっけ?…んーと、まあいいや。とりあえずどうぞ奥へ。知り合いの有名なパティシエの方にも来てもらうことにしてるんです」


「…有名なパティシエ…、それって逆に西野のプレッシャーになるんじゃあ…」


と、心配になるが…


「大丈夫!西野さんにはうまく言ってありますから」


と、言うことらしい。





















厨房ではもう既に準備が調い、いつでもケーキ作りを始められる状態にあった。西野は調理服を身に纏い、隣にいる渚ちゃんと談笑している。


そんな和やかな雰囲気の中、店の裏口のドアが音を立てた。


…渚ちゃんの言ってた有名パティシエっていったい…


「…えぇっ!?」


俺はその姿を見て、驚きのあまり思わず声を上げた。


「よう、久しぶりだな。元気にしてたか?」


「ひ、日暮さん!?」


「なっ、なんだその顔は。俺じゃあ不満か?」


「いや…そういう訳じゃ…」




…そういう訳じゃないんだけど…




「あれ?淳平くん、知り合いなの?」




…やっぱり…




「あ、ああ」






「この坊主とは前に会ったことがあってね。ちょっとした知り合いなんだ」


俺の曖昧な答えに日暮さんはそう言いながら俺の頭を掴んだ。


「それより、君が西野さんかな?はじめまして。今日はよろしくね」


右手は俺の頭に乗せたまま、日暮さんは西野の方に目を移してそう言った。



日暮さん…知ってたんだ。西野が記憶を無くしていること。



日暮さんの話し方やそのしぐさははあまりに自然でとても演技だとは思えなかった。


でもそれが俺にとってはかえって不自然で悲しかった。


……その笑顔の裏で、日暮さんは今、何を思っているのだろう。












「それじゃあ作ってみようか。分からないところは言ってくれれば教えるから」


そんな日暮さんの言葉に頷き、西野はボールと泡だて器を手に取った。




カランッ…




その直後、本当に「直後」、だった。


緊張する間もなく、期待を抱く暇もなく、その軽い金属音は耳に届いた。


西野の方に目をやると、先ほど手に取ったばかりのボールと泡だて器を放し、俯いている。





「…西野…」


何を言えばいいのか分からずに、その名前だけがこぼれた。


そして歩み寄ろうとした俺に向かって―――いや、たぶんそれはここにいる皆に向けた言葉だった―――西野は舌を出して笑いながらこう言った。


「やっぱり無理だ。ごめんね、作れないや」


それを聞いた誰もが言葉を失った。


西野が無理をしてその表情を作っていたことくらい誰でも分かるはずだった。


記憶喪失…そんな事情なんて全く知らない人だって、ここにいたら分かっていたと思う。


大袈裟じゃない。






だって…西野の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていたから。






「あれ…?おかしいな。何で涙が出てくるんだろ?あたし、悲しくなんかないのに…」


「とまってよ、ねえ、とまってよ。なんで勝手に…出てくるんだよ。…あたし…」


拭っても拭っても、その涙は止まらなかった。


それどころか、もっと、もっと、溢れてくるばかりで…


「西野。もういいから…無理しなくて…」


俺が一歩足を進めると西野は俺の顔を見た。


「淳平くん…あたし、無理なんかしてないよ。

ごめんね?ただ、このケーキ…、、、またケーキ、作り始めると、いいことなさそうで、嫌なことばっか起こりそうで…

なんか嫌なんだ。でも…みんなが待っててくれるから、作らなきゃ…だよね?でもあたしは…」









「あ、それってやっぱり…無理してるって…言うのかなぁ…」





体の力がふっと抜けたようにその場に座り込んで、西野は疲れた笑顔でまた俺を見た。


俺はどうすることもできずに、それでもやっぱり西野を抱きしめた。































店の外に出ると扉のすぐ横の壁にもたれ掛かっていた日暮さんと目が合った。


もう、すっかり夜が深まっていた。


言葉に困っている俺に日暮さんは語りかけた。


「西野さん、どう?」


「あ…、なんとか落ち着きました。今着替えてるとこです」


「そっか」


夜空に向けたその言葉に、俺は何も言えない。









「西野さん」


「えっ?」


沈黙の中、突然発せられた言葉に思わず反応する。


「西野さん、彼女の…、彼女のパティシエとしての未来が見てみたかったよ」


そう話す日暮さんの目は寂しそうで、どこか遠くを見ていた。


俺はその横顔をただ見ているだけでやっぱり何も言えなかった。


西野は…ただ、「嫌な予感がする」「作ったら全部ダメになりそう」「きっとうまく作れない」、そう話した。


でも…


パティシエとしての可能性なら、俺よりも日暮さんのほうが良く知っていることは間違いない。


ケーキを作る西野の腕に、笑顔に、どれだけの夢があったのだろう…


そのすべては分からないけど、西野の変化により何かが失われたことは日暮さんの表情からも明らかだった。




「あ、西野さん出てくるみたいだぜ」


小走りでこっちへ向かってくる足音を聞いて日暮さんはそう言い、店の近くに停めてある車へと足を進めだした。


「今日は…なんだか悪かったな。じゃあ」


背中を向けて手を振る日暮さん。


西野が来る前にと気遣って…


でも、日暮さんが悪いことをしたわけじゃないのに…


やっぱり俺は、何も言えなかった。








「おまたせ、淳平くん」


靴を履き終え俺を呼ぶ西野の声に俺は振り向いた。苦悩をすぐに自分の中にしまい込む彼女の明るい声が胸に痛い。


西野が来た今、もう日暮さんの方には向けない。


そうすることが最も日暮さんの意思を汲んだ行動だと思えたから。


「うん…」


俺は俯いたまま応えた。


しかし、西野からの答えはない。


どうしたのかと思い顔を上げると西野の目は俺じゃなく、俺の顔よりもっと遠くを見ていた。


その視線を追うようにして俺は思わず振り返ってしまった。


―――しまった―――


その視線の先には…





「あの…!」


西野は斜め前に一歩踏み出し、大きな声でその背中に呼びかけた。


「あの!今日はすみませんでした。わざわざ来てくださったのに…それと…」


聞こえていないはずがない。


西野の声は聞こえているはずなのに…それでも日暮さんがこちらを向くことはなかった。


すると西野はそこで一旦下を向いてすうっと息を吸い込み、顔を上げると今までよりもいっそう大きな声を出した。



「それと…!一つお聞きしたいことがあるんです。私、どこかであなたに会ったこと、ありますか?」



俺は西野の言葉にただ驚き、その場から動けなかった。


そして、日暮さんの足が止まった。



日暮さんは振り返り笑顔でこう言った。



「あるよ」



そうひとこと言い終えると日暮さんはまた先程と同じように港の方角に向かって歩き始めた。


涼しい夜風が吹いて、俺の頬をかすめた気がした。


何かが動き始めていた。





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