〜君に贈る〜第十三話 - つね 様
泉坂に着いた次の日の夜、俺と西野は泉坂市内のスタジアムを訪れていた。
まだ試合前だというのにスタジアムの外を包む熱気。両チームのサポーターのざわめきと盛り上がり。
俺と西野はその迫力にただ圧倒されていた。
「…すごいね。もしかしてさつきちゃんもあの中にいるのかな?」
「うん。…確かこの辺りで待ってるって言ってたんだけど…」
そう答え、辺りを見回してみると聞いた瞬間それと分かる明るい声と一緒にさつきが手を振る姿を見つけた。
「あっ!真中ー、西野さーん!こっちこっち」
〜君に贈る〜第十三話『大草とさつき』
「ごめんごめん、今日ここで試合がある所為か車が思ったより混んでて…。やっぱり慣れないことはするもんじゃないわね」
苦笑いでそう話すさつき。その様子から、いつもは応援に来るのに車は使っていないようだ。
それにしても…
どことなく周りの雰囲気を明るくしてしまうオーラがさつきにはある。
やはり彼女にはその天性の素質があるのだな、と感心する。
「さ、もたもたしてたら試合始まっちゃうよ。そろそろいこっか」
俺も中学まではサッカーをしていた身。アマチュアの試合なら何度か見に来たことはある。
しかし、サッカー観戦、しかもプロの試合となってはさつきとは経験が全く違う。
そういった点でこうしてさつきが俺たちを引っ張ってくれることはありがたかった。
スタジアムの中に入ると、外で見た、まばらなサポーターの熱気とは比べものにならないくらいの雰囲気が俺たちを迎えた。
ゲートをくぐり、スタンドの一部に立ったその瞬間、何かに背中を押されるような、そんな感覚。
それは胸を高ぶらせ、体の震えさえ起こさせるものだった。
普段は周りの道を走る車たちの音くらいしかないこの空間は、この試合によって姿を変えていた。
自然と身体がうずいていた。
「こら、淳平くーん、置いてっちゃうよー」
気がつけばさつきたちとは随分距離が離れてしまっていた。
さつきのすぐ後ろをついていく西野に名前を呼ばれ、慌てて彼女たちの方へ向かう。
「真中と西野さんの席はそこね。まぁ、あたしも真中の隣だけど」
何度もこの競技場に来ている所為か至ってスムーズに目的の席を探し当てるさつき。
俺と西野はその素早い行動に半ば驚きながら腰を降ろした。
三人がそれぞれ席に着くと、ざわめきと熱気に包まれていたスタンドがよりいっそう活気づいた。両チームの選手が入場し始めたのだ。
選手一人一人の名前が電光掲示板に映し出される映像とともにコールされ、その度にスタンドが盛り上がる。
そんな中で、一際大きな歓声を浴び、大草はピッチに姿を現した。
ゆったりと伸びやかに走りながら、大草は浴びせられた声援に手を挙げて応える。
その人気は高校時代の大草の姿から想像に難くないものだったのかもしれない。
ただ、俺はその姿に今までの大草とは違う何かを見た気がした。
確かに大草は高校時代から多くの女子生徒の人気の的であったのだからプロになった今、チーム有数の人気選手であってもおかしくはない。
でも今大草に浴びせられているこの歓声は嫌味が微塵も無く、老若男女みんなに愛されているような、そんな声たちだった。
何がそうさせたのかは分からない。だけどピッチ場の大草が輝いて見えたのは俺だけじゃなかったと思う。西野だってきっと…
試合が始まるとそこでの大草の姿はさらに俺を驚かせた。
前半、エースストライカーである大草は相手チームの執拗なマークにあい、思うようにプレーをさせてもらえない。
俺の目に映ったのは、派手にゴールを決め、涼しい顔で汗を拭う俺の中での大草像とは程遠いものだった。
相手の徹底的なマークに苦しみながらも泥臭く、貪欲にゴールを狙っていく。
その度に弾き返されても、弾き返されても、尚諦めずに前を向き突破を試みる。
こんな大草の姿を見たことはなかった。
中学時代は同じサッカー部のチームメイトとしてほぼ毎日、高校時代は一度だけ泉坂高校であった試合を見たことがあった。
しかしいずれの時も俺が見たのは、根性や執念という言葉とは無縁の、クールでどこか気取ったプレースタイルの大草だった。
それが今は…こんなにもなりふり構わずがむしゃらにプレーをしている。
高校の時までの大草とは違う。だけど間違いなく以前の大草よりも、かっこよかった。
試合は前半を両チーム無得点のまま折り返す。
相手のラフプレーにも文句を一つも付けない大草のフェアな姿勢が印象的だった。
選手たちがロッカールームに引き上げていくとき、俺は試合が始まってから一言も喋ってないことに気がついた。
隣を見てみればそれは西野も同じで、目が合った俺たちはお互いはにかんだ。
…見に来てよかったね…
そんな気持ちだっただろうか。
さつきが少し得意げな顔でいた。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
ようやく口を開いた西野はゆっくり立ち上がりゲートの方に歩いていく。
俺はその後ろ姿に思い出さずにはいられなかった。
この一週間の西野のこと。
西野は一体、今、どんな気持ちでいるのだろうか。
「ねぇ、真中」
西野の背中をぼうっと見つめていた俺の耳にさつきの声が届く。
「えっ、何?」
振り返るとさつきは少し顔を近づけ俺の耳元で囁くように言った。
「西野さん、記憶喪失ってホント?」
一瞬固まった。
必ず聞かれることだと分かっていたことなのに答えに戸惑う。
本当はあまり考えないようにしたかった。それが解決からは遠ざかる道だとも、きっとうすうす気付いていながら…
「…うん…」
俺は静かに答えた。
「…そっか…」
「…でも、あたしが大草くんと付き合ってることとか…不思議に思うだろうに聞いてこなかったね」
「それはたぶん…分かってるから、聞かないんだと思う。さつきが付き合ってることも……自分が記憶喪失だってことも…」
「…そっか。西野さんには言ったの?記憶喪失のこと」
「…言った…というか気付いてた。周りの反応を見れば一目瞭然だったし…」
あの時のこと…病室から飛び出す渚ちゃんの姿が脳裏によぎった。
さつきはふっと軽く息をついて、俺も一旦顔を上げた。
「何か効果的な治療方とか無いのかなぁ…」
この場の空気を少しでも軽くしようとだろう、さつきは先ほどより明るい声で話す。
「さぁ、ただ…」
「ただ…?」
俺は次の言葉をひと呼吸置いてから言った。
「…ただ、希望はあるかもしれない」
「…希望…?」
「まあ…希望っていっても無いに等しいようなものだけど…」
俺はゆっくりと話し始めた。
「蛍崎…俺と西野が住んでる町に伝説があるんだ。見た人を幸せにする海があるって。それを西野に見せることができれば……」
「バカだよな…あるかもわからない伝説に縋ろうなんて。それに、あったとしても俺には無理かもしれない」
「何で?」
今までとは明らかに違うさつきの口調に思わず顔を上げて彼女の顔を見た。
「何でそんなこと言うの?平気で言えるの?」
「何でって…」
どうしてさつきがこんなにもつっかかってくるのか分からなかった。
それでも追い打ちをかけるようにさつきは言う。
「何で…?何でそんな簡単に諦めれるの?西野さんのために何かしたいんじゃないの?それとももうどうでもいいの?」
「どうでもいい訳なんか…」
そう言う間もなく。さつきは続ける。
「真中は変わった。少なくとも、あたしの知ってる真中は…あたしの好きだった真中は…そんな、夢や希望を簡単に無理だって決め付けるようなヤツじゃなかった」
圧倒されて言葉が出てこなかった。
「……ごめん……」
俺の目を見て強い口調で言い切ると、続いてさつきは俯いてぽつりと呟いた。
何も言えなかった。
…そうかもしれない…忘れていたかもしれない…
あの頃の俺にあって、今の俺に無いもの。
成長の置き去りにされてしまったもの。
俺は…それを取り戻すために泉坂(ここ)へ来たのかもしれない。
「謝ることなんか…無い。たぶん謝るのは俺の方だし…」
そして会話が途切れたところで西野が帰ってきた。どうやら三人分の飲み物を買ってくれていたらしい。
「おまたせ。まだ後半始まってないよね?」
「大丈夫、まだだよ」
どんな会話がされていたのかを悟られないように必死に笑顔を繕いそう答えると、西野は笑顔で答え返した。
西野は…勘がいいから、気付いてるのかもしれない。
笑顔を作ることしか、そうすることしかできないと分かっていながら、それがなんだか西野をだましているようで辛かった。
「よかった。あ、あとこれ。飲み物買ってきてたんだ。喉渇いてるでしょ」
そう言って俺とさつきに500mlのペットボトルを手渡す。
今はその気遣いに胸が痛いほどだった。
…自分が一番苦しいはずなのに…なのに俺は…
先程のさつきの言葉が頭を廻る。
夢や希望を、無理だって諦めて…
西野のこの笑顔に、何度救われただろう。
だから今度は俺が、俺が西野のために…
両チームの選手たちがぞくぞくとピッチに姿を現し始める。
選手が各ポジションにつき、後半開始の笛が鳴ったとき、さつきがさっきとは全く違う口調でぽつりと呟いた。
「あたし、大草くんでよかった。やっぱり西野さんと真中はお似合いだよ」
本心とも思えない、意図もあやふやな言葉。
ただ、その言葉が場の空気を和らげたことは間違いなかった。
後半開始直後、大草は前半から続く徹底マークを苦しみながらもついに突破し、先制点をたたき出す。
そうなるともう手が付けられなかった。
続く後半20分、さらにロスタイムに一点。
時間が経つにつれ、一人、また一人と大草についていける選手が少なくなっていく。
終わってみれば大草はチームの三得点全てをたたき出す大活躍で今日の勝利の立役者となった。
試合後、さつきは満足したようにも得意げにも見える充実した笑顔を見せた。
その時ようやく実感した。
さつきは今、本当に大草と付き合えて良かったと思ってるのだと。
そこでまた自分が自惚れていたことに気付く。
大草がその気持ちに応えられる男になったということは今日の試合での姿を見れば一目瞭然だった。
『大草君でよかった』
あの言葉はさつきの本心だ。
ただ俺が勘違いしてただけ。いつまでも同じだと…
今日の俺はさつきの目にどう映っただろう。
ひどく情けなく見えたと思う。
きっと”今”の時点では俺より大草の方が夢に向かって真っ直ぐだった。
でも…明日からは、明日からはそうはいかない。
久しぶりに素直になれた気がする。
やっぱり俺はバカのままでいいと思った。
夏が終わろうとしている。
でも俺はまだ今スタートラインに立ったばかり。
ここからまた始まるんだ。
…いや、ここから俺が”始める”んだ。
まだ熱気の収まることのないスタジアムのカクテル光線を背に受ける。
二人並んでスタジアムを後にするとき、俺の中で、確かな意志が固まりつつあった。
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