Summer 4.SEPARATE YOU - スタンダード  様






西野が病院へ運ばれた。


そんな話を聞いたのはその三日程後のことだった。


僕は一瞬目眩を感じ、同時に一切何も感じなくなった。



















西野は病院のベッドに横たわっていた。


外科のベッドに。


「ぷっ!だっせぇ〜!」


「う…うるさいな〜人間誰だって人生に一度は階段から落ちるわよ!」


西野は腰を打って動けず、病院のベッドに横たわっているのだった。


以上…。




































そんなこんなで、僕の夏休みは異常とも言えるほどのスピードで進んでいったような気がする。


そして、それに見合う濃い充実した日々であった。


こちらに来てから2回の台風が過ぎ去り、4度の大雨洪水警報が出た。


西野の家の雨漏りを直したり、風で吹き飛んだ屋根板を取りに行かせられたり。


キスしそうになってキスしなかったり…。


ちょっとしたアクシデントで抱き合う状態になったり。


めちゃくちゃで、幸せな日々。


だが、今が幸せであればあるほど、未来へのギャップと共に不安は募る。


今、最も身近にある幸せは、急激に増加・上昇し、一気に減少・下降するかもしれないのだ。


でも、だからといって、不安になり、怯え、悲しむことに意味はない。


明るく、楽しく、幸せに、たった一瞬である『今』を過ごしていきたい。


きっと誰もが願っている。


そして気まぐれな神様は、そんな小さな願いすら叶えてくれない。


少なくとも僕の場合は……。


































こんなつもりはもちろんなかった。


西野を怒らせるなんて。


自分でも気付かないうちに、西野と別れこの地を発つことを恐れ、弱気になっていたんだと思う。


でも一方的に西野が怒っているんじゃなく……














僕も怒っている。


















本当になんでもないことが始まりだった。


僕が「そろそろ帰る日か…」と呟き、


西野が「寂しいな」と言った。


「さつきちゃんのことを好きになってあげてね?」


「無理だよ…」


「お願い…」


「そんなの…自分じゃないから言えるんだよ…!」


「そんな言い方しなくても…」


「だってそうだろ!?西野は俺じゃないし俺は西野じゃないんだ!


 だいたい俺には何で西野がそんなに俺とさつきをくっつけたがるのか分かんない…」


「それは淳平君に」


「もういいよ……」


「……勝手にすれば!」







そして西野は逃げるように走り去り、僕は逃げ去りたいのに取り残された。


一瞬見えた西野の表情は、きつくて悲しかった。


僕はというと、怒りの矛先をどこに向けていいか分からず苦しんでいる。


西野への怒り…?


自分への怒り…


分からないけれど、ひどく自己嫌悪に陥った。


つまり、西野に好かれていないのが怖いだけなのだ。


整理できないような気持ちと共に、今までの弱気な気持ちが流れ出してきた。


泣きたい気持ちというのはこういうことを言うんだと思った。


たぶん泣けばすっきりするだろう。


なぜかそう確信するが、でも僕は泣けなかった。


泣くなんて卑怯に感じたから。


なぜかは分からないけど、泣いていけない気がして…


そして心のモヤモヤとしたものは、僕の中にとどまったままだった。






























翌日、間もなく僕と西野は顔を合わせた。


完全に無視された。


冷たい目で…


間違いなく気付いているはずなのに、本当に見えていないんじゃないかと思えるほど…。


僕はというと、その行動に怒りを感じ、無視を仕返す。


今僕の世界に西野は存在していなく、西野の世界に僕は存在していなかった。


こんな近くにいるのに。


























それでも日々は着実に過ぎ去り、出発の日は近づいていた。


考えられないほどのスピードで進むカレンダー。


その中身は、ひどく薄くて儚かった。






カレンダーは、サヨナラの印の1個前まで進んでいた。


明日の朝は早い。


電車の都合により、午前7時には家を出なければならない。


僕はすでに荷物をまとめ、出発準備を整えていた。


未練だらけのこの地に、未練などないと嘘をつきながら…。


西野と離れることにより、僕からは笑みが逃げ、祖父の死の悲しみが帰ってきた。


忘れていたあの心の傷に近い痛みを抱えながら、


足下に置いてある『エリック・クラプトン/アンプラグド』を眺めていた。


本棚に立てられた土佐日記を見つめていた。


心に散らばる西野のカケラを集めていた。



















午後、何もすることがなくなり、僕は外をぶらぶらと歩いた。


森。


西野と歩き、話し、眺めた森。


今日でおさらば。





坂。


西野を乗せて走り、呻き、乗り越えた坂。


もう登れない。



教会。


西野と目指し、連れられ、語った教会。


神は今そこにいない気がした。






今瞳に映るのは、“無”のみだった。


見え“なく”なる森…


登れ“なく”なる坂…


神が“いない”教会…


西野が“いない”世界……。












結局、中途半端に西野と別れるんだろうなと思ったその時、瞳に“有”が映った。


西野だった。


教会から出てきた西野は、僕を一切見ようとせず、すぐ隣を通り過ぎていった。


先日と同じ、完全な無視。


その時、自分でも驚くぐらい、すんなりと体と口が動いた。


とっさに西野の肩に手をかけ「西野」と一言。


でも西野は手を振りほどき、振り向かずさっさと歩き去ろうとする。


僕がもう一度「西野!」と叫んだ瞬間、彼女は駆けだした。


間違いなく逃げている。


そして、またしても驚くぐらいすんなりと、僕は西野を追いかけていた。























地の利を得た西野は、木と木の隙間や、森の茂みへ走り込み、何とか振り切ろうとしているみたいだった。


もちろん僕は必死で追いかけ、何とか食らいついていた。


走りながら周りの景色を見ると、どこもかしこも見たことがある気がした。


いつの間にか西野に連れられて歩き回った森が、心の奥底に想い出として刻まれようとしている。


でも…ただの想い出にしたくないものもある…。














かなりの時間、追いかけ続け、距離が近づいてきた時、前方に小屋が見えた。


それは、こんな状況を作り出した、あのケンカの場所…。


そして僕と西野が最も長く一緒にいた小屋…。


あの小屋に入ったら、西野は行ってしまう気がした。


どこへって?


分からない。


でも…


僕の知らない世界へ…。


西野はドアを開け入っていった。


いやな気持ちになる。


鍵を閉められ、渋々戻り、泉坂へ帰る僕。


そんな風に頭は働き、泣きそうになる。


行ってしまう…


行ってしまう…


行ってしまう…?


行かないで欲しい…


行かないで…
















「行かないでくれ 俺やっとわかったんだ!!


 


    俺…俺 好きなんだよ 西野のことが…!!!」










バン!という大きな音と共に…


自分の意志と関係なく、自分の本心を叫んでいた。





































長い沈黙だった。


1分…?


1時間…?


時間的な感覚がおかしくなってみたいに、時の流れっていうのを感じなくなった。










「……よ」


かすれるような声が聞こえた。


「ダメだよ…そんなこと言ったら…悲しくなる…」


訴えるような瞳で僕の瞳を覗き込んでいた。


今日初めて目があった。


「そんなこと言ったら…


 余計悲しくなるだけだよ…」


「うん…そうかもしれないけど…


 でも俺は!未練タラタラで別れるなんて嫌だから!」


そう。


たったそれだけ。


















約15分後…


僕と西野は、見慣れた森を歩いていた。


この一ヶ月、過ごした期間と共に増えてった想い出を掘り起こし、そっと撫でるように触れる。


何でもないような木は…何でもない川の音は…目に映る以上の輝きを、胸の中では放っていた。



















少し横長で、ベンチのような岩に腰掛ける。


隣に西野がいるだけで安心できる気がした。


「あたし達何でケンカしてたんだろうね…」


あんな些細なもめ事のせいで、大切な時間は削り取られてしまった。


どれもこれも…


「俺のせいだよ…ごめん…」


「違うよ!あれはあたしが淳平君の気持ちを考えずに…」


「いや…。西野は悪くないんだよ。


 だって西野はさつきのことを考えてああいうことを言ってたわけだし…。


 悪いのは俺なんだ…。


 ちょっと…ヤキモチ妬いてただけ…」


言葉にしてみればあまりに幼稚であまりに情けない。


西野が「ヤキモチ妬いてくれるんだ」と笑ってくれなかったら、それこそもっと深い自己嫌悪の悪循環へと陥っていただろう。

























「さつきちゃんと仲良くね…」


急に改めてそう切り出され、なんと答えていいか迷った。


でもそれが西野の望みならばと…


「うん…」


そう応えれば、沈黙が訪れる。


「なんだかんだいって…やっぱそう言われるときついな…」


西野が本音をもらした。


それでも僕はどうしたらいいか分からず考え込んでしまった。


再度沈黙。


そしてある一つの案が浮かび上がる。


こんな小さな脳みそで考えられる最善の案。


「決めた!」


僕がそう立ち上がると西野はオーバーリアクション気味に驚いた。


「…びっくりしたぁ…どうしたの?」


「俺は西野の期待に応えるような人間になる!」


それしかない。


西野の、表向きの理想でなく、内面からの希望に応えたい。


西野の深層心理のような、決して見えない幸せへの道を照らしてあげたい。


それが、西野が幸せになるために僕が出来ること。


「なんか前あたしに教えてくれた夢より簡単になってない?」


いたずらっぽい笑みをしながらグサッと突き刺さる一言。


確かに一理ある。


でも、価値としては変わらない。


そんな風に説明すると、西野は少しの間黙り込んで考え事をしていた。


数十秒の後、そうだ、とこちらに目を輝かせた。






「あたしは……








 淳平君が期待され、期待に応える男になること、を期待する!」















思いがけない答えに戸惑う僕。


西野は間髪入れずに続けた。


「淳平君の本当の夢は、みんなから期待されることでしょ。


 あたしに合わせて夢を変えるなんてダメ。


 淳平君は淳平君の夢を目指して淳平君らしく生きなきゃ。




 まあ、どっちにしたって、あたしの期待に応えてくれるんでしょ?


 つまりみんなから期待される男になるんだよね〜」





「みんなの期待に応えて…?西野の期待…?ん…?」


「アッタマ悪いなぁ…」


分かってますよ。


「つまり…」


「つまり…?」



















「頑張って。それだけ」

















今まで聞いたどんな応援の言葉よりも、強く優しい言葉だった。


世界中で、この言葉が一日に何回、何十回、何百回使われているなんて知ったことじゃないけど…


間違いなく、世界中で僕のみ、たった一人しか聞けない言葉だった。

















「大丈夫。『君ならやってくれる』ってね」



眩しいまでの笑顔で僕に期待する。


西野がそう思ってもらうことが僕の夢で、つまり僕の夢はもう叶った。


それはイコール西野の期待に応えたはずなのに、西野の期待全部には応えられていない。


一本取られた。


結局、僕は西野の期待を抱きながら、みんなの期待に応えることになるんだ。


それは最高の人生の歩み方なのかもしれない。


理由もなくそう考えた。
































「なんでそこまで…」


なんでそこまで僕の幸せを望むのだろう…


そう尋ねれば、あまりにも自然に答えが返ってくる。





「『君』の姿勢があまりにも真剣だから


 …それに


 もしかしたらあたし『君』のこと――――」












何気ないすれ違いから広がっていった溝。


急激に埋め立てられ、無くなりかけた溝。


いつもの調子が戻りかけた会話の中、西野はさりげなく自分の想いを語ろうとした。


『君』


僕と西野の間の、聖なる言葉。


今僕に向かって使われたその言葉…。


僕は何も言わず呆然としていた。
















「や〜めた!」


「へ?」


「このセリフの続き言うのを」


「え…」


「続きは想像にお任せします」


そして今度は「そうだ特等席に連れてってあげる」と。


おもむろに歩き出し、僕の知らない道を進んでいく西野。


そしてその途中、背中越しに言った。


「あ、ちなみにあたしはそのセリフを言わないことに未練なんて無いよ


 いっつもいっつも心の中で叫んでるから」






大胆発言といえばそうだが、僕たちはもう分かり合っているのだ。


お互いが好きで好きでたまらないということを。


僕は知っているんだ。


西野はただ恥ずかしくて言えないだけだって。


その証拠に、西野の耳が、今真っ赤なのも僕は知っている。




















いつの間にか森を歩くことになれてしまった僕の足は、何の異も唱えずに、西野に連れられて歩いた。


少し急な段差を降り、前を見ると、そこには広がっていた。





夕日を映す恋しが池が。




一度、西野から聞いたことがあるだけで、初めて見た。


世界中のどんな絶景よりも、西野と見るこのちっぽけな池の方が、どんなに美しいだろう…。




日は沈みかけている。


空には星が瞬き始め、辺りを暗く照らしているようだった。







「もう日が暮れる…早くなったね…」


西野がそう呟くと、答えたくない答えしか僕には浮かばなかった。


「夏も…もうすぐ終わりだから…」


僕と『君』の…夏が…。
















静かな時が進み、日は落ち、完全に星空となる。



夕日を眺め、星空を見つめ…


『君』の頬を流れた涙を…



僕はずっと忘れないだろう…。






















































その夜、僕らは夜遅くまで話した。


話せば話すほど、心の奥底で凍っていたような想いが溶けて、同時に雪崩のように口から飛び出した。


まるで何年も話さなかったように話したいことがどんどんどんどん出てきた。


話すよりも聞く方が好きだった僕だが、今夜だけは口が閉まらなかった。


西野も同じで、聞いてるだけはとどまらず、一時をも惜しむかのように話し続けた。











深夜家に戻ると、いつものこの時間なら寝ている祖母は起きていた。


でも何も言わなかった。


そんな小さな心遣いが、この夏、僕の支えの一つだった。


祖父と違い、あまりに記憶になかった祖母が、この夏、忘れられない人となった。


最後に僕に笑みを見せると、祖母は安心したように部屋に入っていった。


僕は部屋に戻ると、ウォークマンを取り出した。


西野に借りた、そして結局貰うことになった『エリック・クラプトン/アンプラグド』をセットした。


静かに弦をはじく音が流れ出す。


本棚にある詩集から、紀貫之を見つけ出し、二つの詩を眺める。


自然に涙が出た。


泣いてもいいかなと思った。


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