Summer 1.PROLOGUE - スタンダード   様


あれは十年前のことだと記憶している。


僕は確かに彼女と出会い、そして僕の理想の僕と出会った。


奇跡とは…想い出とはああいうことを言うのかもしれない。





















世界が過ぎ去っていく。


目の前を、淡々と…。


僕は世界は一本の直線だと思っていた。


その直線はもちろん時間軸である。


規則的に時間は進む。


今日の「一分」と明日の「一分」は間違いなく同じだし、今日が過ぎれば明日が来るのも、また必然なのだから。





夏の香りがしていた。


泉坂で感じた匂いとは違う。


木々が、花々が、輝きを見せる香りだった。


ゴトゴトと電車が揺れている。


一両編成の中、乗車している客は数えるほどだ。


その電車のちょうど中間あたり。


僕は窓の外を流れる世界を見ていた。


直線は時間と共に、地理的な距離も表しているのかもしれない。


長い長い直線だ。


幾年もの月日を越え、把握しきれない広さを持つ。


それが世界という直線。


そんな中で、今ここにいる真中淳平は、ものすごく小さく不安定な存在であると自分でも分かっていた。
















「なあ、さつき」


「何?」


一週間前、いつもと同じように帰宅する途中。


僕が話を切り出そうとすると、さつきは屈託のない笑顔で答えた。


僕が話しかける時、いつも笑っていて、それが作った笑いなのか自然な笑いなのか僕には判断できない。


「今度の夏休み、じいちゃんの田舎に行ってくるよ…」


そう言うと、さつきの表情は急に固くなり、心配そうな声を出した。


「そう…すぐに帰ってくるよね?」


懇願するさつきは、僕の目の奥の方を覗き込むようにグッと近づいた。


「……夏休み中、ずっと行ってようと思うんだ。


 じいちゃんがどうしても離れようとしなかった所…一回行ってみたくてさ」


僕の祖父のことは、さつきも知っている。


小さな頃に、一度だけ会ったことがある。


たまたま祖父が泉坂に来ていたのだ。


曲がり角でさつきと別れ、自分の家へ向かって歩く。


その沈黙は、日に日に重く感じるようになっていく。


僕の前に広がるのは、薄暗がりの一本道だけであった。




























祖父が死んだ。


本当に仲の良い、大好きな祖父だった。







たまにケンカをすることもあるが、両親は大切にしている方だと自分でも思っている。


家出なんてしたいと思わないし、両親が死んだら、と思うと正直怖い。


そんな僕が両親と同じぐらい…もしかしたらそれ以上好きだったのが祖父だ。


小さな頃、祖父の田舎に行ったことがある。


泉坂と比べると、あまりにも何もなかった。


お前も大きくなればこの土地の良さが分かるよ、と言っていた祖父の笑顔が懐かしい。


記憶に残っているのは祖父の行動と田んぼ、それだけだ。


どんな所だっけと記憶を探っても出てこない。


この電車に乗っていけば、その土地へ着く。


たぶん見れば思い出すだろうと思うと考えるのを諦めた。


どうせ入り口と出口が繋がったような…そんなドーナツのような思案なのだから。


















終点とアナウンスがかかり、プシュッと音を立てドアが開く。


ドアの隙間から飛び込んできた景色はまるで世界が違うようだった。


ここが祖父の居場所。


眠っている場所……。


地図を手に祖父の家を目指す。


今は祖母が一人でいるはずだ。


葬式や通夜はもう済んでいる。


あまりにも田舎で、近所はほとんど知り合いである。


隣人が丁寧に葬ってくれたらしい。


村と言うより集落に近いここは、ゲームの中でしか見たことがないような、孤立した世界だった。


「おや〜?見ない顔だねぇ。お兄ちゃんどこから来たの?」


少し聞き慣れないイントネーションで不意に尋ねられた。


いつの間にか背後にはしなびたおばあさんがいた。


「あ…どうも。こんにちは…。えっと…東京の方から……」


泉坂、と言おうとしたが、ここが別世界であることに気付き東京に訂正した。


「あんれま〜東京かい。そりゃま遠いところからごじゃったの〜」


おばあさんは大袈裟なまでに驚き。東京か〜とまだ感心している。


「……。…ちゃん。お兄ちゃん?」


「えっ?」


こんな短い間にもどうやら放心していたらしい。


僕はすいませんと言った。


「なんだか元気ないの〜若いのにどうかしたのかい?」


元気がない……。


やはり事情を知らない人にもそう見えるらしい。


「お兄ちゃん名前なんちゅーの?」


「あ…真中って言います」


「真中?あ〜もしかしてお兄ちゃん一平さんの孫かい?」


一平とは僕の祖父だ。


淳平、という名も、祖父が自分から一文字取って付けてくれた。


「あ……はい……」


「だからか〜元気ないのは〜」


このおばあさんは祖父のことを知っていた。


この辺りの人はみんな知っているんだろうなと思った。


この別世界は別世界なりに皆繋がっているのだなとも。


「ほれこっちだよ、一平さん家は」


手招きして自分――余所者 を迎えてくれている。


人の温かさってこういうことを言うんだろうかとちょっとクサイことを考えていた。












二人で歩く内に、男女のカップルを見つけた。


おばあさんは、「いいねぇ、せーしゅんは」などと言っていた。


せーしゅんとは何を表すのだろうか?


自分は青春しているんだろうか?
















北大路さつき。


幼い頃からの大の友人。


彼女とはもう十年来の付き合いと言うことになる。


そして去年から正式に恋人同士である。


整った顔立ちをし、しっかりとした胸の膨らみと、きゅっと細いウエスト。


少し気が強いが、垣間見せる優しさは胸を打つ。


完璧と言える彼女と付き合っていて、何が不満なのか。


好きじゃないと言ったら嘘になる。


しかし好きで好きでたまらないと言えば、それもまた嘘だ。


もともとは恋愛感情なんて持っていなかった。


男女間の友情、であったはずだ。


だがそれは僕だけであったのか、彼女は物心付くといつしか僕に惹かれていたと言う。


告白してきた時にはあまりに唐突で、勢いでOKしてしまった。


それからというものの、彼女とは別れられない。


別れたいわけじゃない。


彼女といるのは楽しいから。


ただ彼女のことを弄んでいる気がして…それが後ろめたいだけだ。


しかし別れを告げれば、さつきは悲しむだろう。


一緒にいてあげた方が幸せなら、と思うと別れられない。


これは恋愛なのだろうか、それは青春なのだろうか…。





















「ほれ、ここだよ」


先を歩いていたおばあさんが指差した。


前には泉坂では考えられないぐらい大きな家と庭があった。


どこか見覚えがある……。


ただ漠然とそう思った。


風鈴が揺れている。


これも向こうにはあまり無かった。


この世界の、全てが新鮮な気がする。


ギィと音を立て、玄関の戸が開く。


玄関から出てきた祖母はずいぶん年老いたように感じた。


「あら淳平。やっと着いたのね。お帰りなさい。大きくなったねぇ」


単発的な言葉を発する祖母は、どこか表情が優れない。


精神的に疲れているのは目に見えている。


それでも落ち込んでいる僕に気を遣っているところが、逆に僕は悲しかった。


祖母と自分、どちらが落ち込んでいるだろうか……


比べようのないことだ。


最愛の夫と最愛の祖父。


『最愛』に差があるはず無い。


それでもこれから一人で過ごさねばならない祖母は、やはりどこか痛ましい。


「中へお入り」


祖母は笑顔で迎え入れた。


いかにも日本的な家の造りはいくらか心を落ち着かせてくれた。


「こっちよ」


仏間に案内された。


位牌や仏壇を目の前にすると、いままでイメージでしかなかった祖父の死が現実となって降り注いだ。


やはり目の前にしてみると少しキツい。


思わず目頭が熱くなり、目をそらす。












僕は耐えられなくなり表へ出た。


祖父が愛したこの地を見てみたいという理由と共に。


すぐ近くには公園があった。


あまり使われた形跡のない遊具。


手入れがされていなく、だらしなく伸びた草。


今にも倒れそうなフェンス。


今見る景色の全てが寂れていた。


僕は小さく佇むベンチに腰掛けた。


これも今にも壊れそうであったが、例え壊れて尻餅をついたところで、今の気持ちが揺れることも安定することもないと考えるとどうでも良くなった。


腰掛けると、ギシッという音がしたが、何とか持ち堪えた。


少し気持ちを落ち着かせ、辺りを見回しても誰もいなかった。


一人になるために来たのだから、問題はないのだが、こうも簡単に一人になってしまうこの町が悲しかった。


思わず溜息がこぼれてしまう。


やはり泉坂とは世界が違う、そう思うと同時に違って良かったとも思う。


もしもこんな世界だったら、僕は何年、何ヶ月、何日でギブアップするだろう。


やはり思考はその辺りで止まり、現実にも、僕の頭にも、沈黙が訪れた。


腐りかけのベンチに横になった。


太陽の直射日光は夏を感じさせ、草の匂いを漂わせた。


まぶしさに耐えられず、手をかざし目を陰に入れる。


そのうち腕が疲れると、瞳の上に手を添え、完全に寝る体制へと移った。


さらに溜息をつく。


最近溜息をつくことが増えたと自分でも思う。


ちなみに辺りは何もないので、僕が音を発しない限り、基本的に無音である。


耳を澄ましても何も聞こえず、まるで世界に一人だけという錯覚に陥った。


だんだん遠のいていく意識のその中で、微かに映る夢の中は、僕以外に誰もいない悲しい世界だった。

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