『真実の瞳』−18.「開道」 - スタンダード 様
翌日、淳平は10時頃に家を飛び出し綾の家へと向かった。
もちろん相手の都合などお構いなしで。
家の前まで来ると、急に悪い気がしたがまあいいやという気持ちで家に入れてもらうと、すでに外村の靴があることに気がついた。
よっ、と何事もなかったかのように挨拶する外村に、淳平はただただ呆れるしかなかった。
「お前・・・来るの早すぎだって・・・」
「前にも言っただろ。この家は俺の基地だって」
基地じゃなくて巣である。
が、めずらしくこずえがいなかった。
どうしたのか聞いてみると、眠いから来なかったらしい。
それでも一人で来たようだ。
余程この環境が好きらしい。
「で、お前はどうしたんだよ」
「これこれ」
そう言って原稿を見せた。
「読み終わったからさ。感想とか」
当たり前のように話す淳平。
しかし、外村と綾は、えっ、と驚いている。
「真中君・・・もう読み終わったの・・・?」
まさか、という表情で尋ねる綾。
常識的に考えて、一晩で読み切るような作品ではなかった。
読むスピードは人によって違うだろうが、たとえ早い人間でもこれは2,3日かかるだろうと思っていた。
淳平はまた当然のごとくコクリと頷く。
驚きのあまりに感想を聞くことへ対しての緊張がほぐれた。
今ならアドバイスをしっかりと受け入れられる、なんとなくそんな気がして淳平に言った。
「じゃあ感想を聞かせてくれる?」
淳平はもう一度頷いた。
「この話、かなりいいよ」
その言葉に綾の表情がぱっと明るくなる。
その後、淳平は感想と監督から見てのアドバイスを話し始めた。
まず、ストーリーについて。
これは基本的に褒めることが多くなった。
話しの作りに文句を言うことはしない。
ここの展開は面白かった、まさかこんなラストだとは思わなかった。
そのような言葉で綾のストーリーを賞賛し、綾も終始笑顔で頷いていた。
次には描写についてだった。
そもそも、綾の作品はストーリーに問題はなかった。
それは昔から今までの全ての作品においても言えることだと思っている。
では売れない理由、ぱっとしない理由は何なのか。
それがこの描写の問題だった。
しかし描写についての話しを始める際、淳平はいきなり綾に向かって一言、
「このまま出版しよう」
と言った。
思っても見なかった話に綾は慌てるが、淳平の表情は真剣そのものである。
「でも・・・台本だからと思って省いた表現も結構あるし・・・」
それは本当のことだった。
もし伝わらないところがあれば自ら淳平に話せばすむことだ。
そう思い、描写を省いた部分が多かった。
しかし問題はそこにあった。
「いや、このままがいいんだよ」
淳平はそう諭し、その理由を述べる。
「東城の作品ってさ、ものによって全然違うんだよ。
で、大体二種類に分けられる。
一種類目が、石の巨人、高校時代の脚本、で、これ。
もう一種類が審査員特別賞のやつ、それから出版した三冊。
東城自身なんとなくわかるかな?」
淳平の問いに対し、うんと呟く綾。
自分でも分かっていることだった。
でも、何が違うのかと聞かれると答えられない。
自分としては同じ気持ちで書いているつもりだった。
「これってさ、映画の脚本か、そうでないかなんだよ。
たぶんだけどさ、東城って脚本以外の作品だと必要以上の説明が多いんだよ。たぶん。
それで読者が飽きちゃうんじゃないかな。
けど映画の脚本の場合はなるべく最低限で書いてある気がする。
もし分からなかったら東城に聞けばいいし演技中に東城が意見すればいいからさ。
そこが違うんだよ、たぶん」
はっとした。
そうかもしれない。
その思いは次第にそうに違いない、と変化していく。
書いているときのことを思い出してみてもそのような気がする。
説明がなければ読者には伝わらないよね、と、そう思い説明を記すことは書き手としても苦であった。
その点、脚本の場合はストーリーを淡々と進め、スムーズに筆が進んだ。
そうだったんだ・・・。
だから淳平は「このまま出版しよう」と言ったのだろう。
今、この状態の方がコンパクトで、文章として読みやすい。
自分でも分からなかった脱出口が、淳平によって一晩で露わになった。
自分よりも他人の方が案外自分を知っている。
そんな話をよく聞くが、それでも淳平の目の付け所には感心させられた。
すごい・・・。
ただそう思うしかなかった。
しかし、一つ考えてみる。
「石の巨人は?」
あれは映画の脚本ではない。
でも確かに種類としては前者に属すものだろう。
何故だろうか。
淳平はあれは、と口を開く。
その表情はどこか懐かしげで、この空間の空気がまるでそのまま昔に戻ったように感じられた。
「あれは・・・読者が俺だけだったから」
その簡単な答えに、全てが解決へと導かれた。
そう、あの作品は淳平へ向けたもの。
始めは暇つぶしだった。
授業中に思いついたことを走り書きのように書き綴った。
でもそんな思いがいつしか変わっていた。
淳平に読んでもらいたい。
読んでもらい、感想を聞くことが嬉しかった。
そのために書き続けた。
終わりは・・・まだ迎えていない。
淳平が旅立ち、会えなくなったからなのかもしれない。
どうしても続きが書けなくなっていた。
外村は『石の巨人』という小説の存在を知らないために、話の内容を理解できない。
なんとなく重苦しい大事な話であることは見当が付いたが、結局どうすることもできずぽーっと眺めるばかりであった。
そんな外村をよそに話は続く。
「だからさ、これぐらいの方がすっきりしてていいんだよ。
ちょっと物足りないって感じさせるぐらいが。
読者も想像するのが楽しいって言うのもあるしさ。
・・・これで出版してみない?」
淳平の口調に強要する感じは全くない。
淳平も、綾の自由にしてもらうつもりでいた。
それでもきっと出版することを選ぶだろう。
そう思っていた。
自分は文学について詳しいわけでもなく、この主張が本当に正しいかは分からない。
でも、一読者としての、素直な感想がそれだった。
例えどれだけ文学的な評価が高くても読者の支持を得られなければそれは素晴らしい作品とは言えない。
言い換えれば、例え文学的価値がなくても読者に好かれればそれは立派な作品だ。
読者こそがその本の価値を決める。
綾は一瞬たりとも迷うそぶりを見せなかった。
「ううん、やめとく」
にっこりと微笑み、一言そう言う。
予想だにしなかった答えに淳平は自分が間違っていたのかと焦る。
え、と間抜けな表情を見せる淳平に綾はもう一度微笑みその理由を話した。
「あたしは・・・人気が出ればいいって思ってる訳じゃないから・・・。
小説はやっぱり趣味の域を出ないし、本当のところ出版もしなくていいのかもしれない。
書いてるだけで十分楽しいから。
だから、あたしの考えた世界を人に紹介するっていう感じで書いていきたいの。
なのにこれじゃああたしの力じゃなくて真中君の力みたいじゃない?
それであたしの作品として評価されるのってよくないことだと思う」
心から感謝をするような表情で語る。
話の中身ではどこか淳平の誘いを拒絶している感があるが、その表情から決して悪意はないと分かった。
自分への甘えを断ち切るようだった。
「それに・・・」
俯いていた淳平はその言葉に顔を上げる。
目に映った綾の微笑みが5年前のそれと全くずれることなく一致した。
「読者は・・・真中君だけで十分だから・・・」
他の全ての音が遮断され、綾の口から発される声のみが耳にはいるようだった。
綾にとってみれば、小説、というよりもノートへ書いて落書きから始まった『創作の世界』は見せるためのものではない。
あの頃を振り返ってみれば、引っ込み思案な自分からの逃げ、現実逃避の果てがそこにあった気がする。
小説の中の自分は、いつも輝かしい。
虚の自分を創ることによって満足を感じていた。
それを変えてくれたのは淳平であった。
逃げ込む先だった小説を、一つの長所として考え、自分を変えてくれた。
そして今の自分がいる。
小説を書いて淳平に見せれば、自分に自信がついた。
それが嬉しかった。
読者は淳平だけでいいという考えはそこから来ていた。
5年前ならば目の前の少女が愛しくなり抱きしめていたかもしれない。
しかし今は違う。
相手にはかけがえのないパートナーがちゃんといる。
同時に、こんなに自分のことを想ってくれていた人に何もしてあげられなかった過去、何もしてあげられない現在が悔しかった。
もちろん衝動に駆られると言うこともない。
もしその気持ちに負けていたら、人妻と昔の友人との・・・
「不倫か?」
ということになる。
不倫という表現を持ち出した外村の頭を小突き、違うと否定する。
そういうものじゃなく、どこか心の奥と奥とが繋がっている気がする。
恋とも愛とも違う、なんとも言い難い感情。
でもそれは綾だけに限るものではなく、外村にも感じているものだ。
友情に近いものだろうか。
この人に会えて良かったと、この人と知り合えて良かったと思わせる気持ちのいいものだ。
「そっか・・・」
綾の決意に小さく返す淳平。
落胆しているのは、綾の本気の作品が世間にどれだけ認められるか見てみたかったからであった。
だがそれも綾の望みなら仕方がない。
「でも俺だけが読者なんて言わないでくれよ。
俺は東城の作品がどれだけすごいかを教えてやりたいんだからさ」
繕うように述べる。
読者は自分だけでいいという言葉は嬉しくもあったが、同時に綾の作品が世間の目を浴びずに眠るというのが惜しかったからだ。
しかしその心配もなかった。
「うん。
だから真中君の専属脚本にしてくれない?」
思いがけない申し出に、とっさに答えることが出来ない。
少しの間をおいて、理解したのか呆気にとられた顔になった。
また少しの間を置き、完全に理解したのか今度は笑顔を見せる。
「本当に!?」
そう勢いよく尋ねる淳平は、まるで子供のようだ。
綾は静かに頷くと、いいでしょという意味のいたずらっぽい笑みを浮かべる。
当然、断る理由はない。
石の巨人を初めて呼んだとき、その文は鮮明な映像となって頭に映し出された。
その作者である東城綾が専属脚本家。
自然と気持ちは高揚していった。
その後、また脚本の話へと戻った。
100分程度という目安の数字を全くに無視した綾の文章を削らなけらばならない。
どのように短縮するか、たとえば情景描写の時間は減ってくるし、物語の本体を削ることもあり得る。
その中で重要な意味を含むシーンを限定していかなければならない。
それは困難な作業であった。
前述のように、脚本としての綾の作品は最低限のラインで描写されている。
不足な部分はないが、余分なところもない。
それであれだけの長編になってしまったのだから、なかなか厳しいものであった。
しかし、真実の瞳は画期的な方法で打破するのだった。
「ちょっとこれを見てほしいんだ」
そう言って取り出したのは、綾の原稿の半分ほどであろう、同じく原稿だ。
しかし、綾のものとは書体が違い、一目で別物と分かる。
「これってもしかして・・・」
唖然とする綾。
無理もない、一晩で作品を読み切るだけで一苦労だったはずだ。
にもかかわらず、この量の原稿を仕上げてきた。
聞くまでもなく、尋ねるまでもなく、淳平なりにまとめた脚本であった。
やり取りを横から眺めていた外村は淳平を疑う。
「お前・・・これも一晩で・・・?」
言を途切れさせるほどの驚き。
その要因となった人物は、しかし当然のごとく相づちを打ち、頷く。
「お前寝たのか・・・?」
「いや、昨日は徹夜。
おかげで眠くってさぁ・・・」
当たり前だ。
徹夜をせずにこれだけのことが為し得るはずがない。
しかしだからと言って簡単に納得できるわけでもない。
どれだけの集中力、忍耐力を費やせばこれだけのことが出来るのだろうか。
想像も付かない荒業に、ついには言い返す言葉も失った。
その二人の会話中、綾は原稿に目を通していた。
そのスピードは至って速い。
小説家という職業上本は良く読む上、今回のものはもともと自分が書いたものなのだからそれもそのはずである。
綾の文がベースである限り、やはりそれは綾の文章なのだ。
しかし何故だろう。
まるで別の作品のような輝きを見せている。
少しずつ、少しずつ手を加えただけにもかかわらず、全く別の一面を見せている。
その原稿が見せるものは、綾の書いた原本が正のイメージだとしたら、完全な負、そしてそれを超越した正のイメージであった。
綾は『万物流転』というテーマを、人が変われる素晴らしさとして扱っている。
だが淳平は、もう一つのテーマを融合させ、人が変わってしまう悲しさ、変わってしまうが故、悲しさすらを忘れることの出来る才を描いた。
融合させたもう一つのテーマ、それは『死』だった。
「これって・・・」
驚愕する綾に頷き、ああ、と呟いた。
「これは西野のための映画だ」
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