『真実の瞳』−14.「悲対」 - スタンダード 様
淳平は一人たたずんでいた。
何故かつかさに会いたいという衝動に駆られここにいる。
目の前にはマンション。
来るのはまだ2度目だ。
もちろんあてもなく来たから、つかさが出迎えに来るということなどはなく、ただ一人、その無機質なマンションを眺めていた。
結構な時間、悩んでいる。
予ぼうか呼ぶまいか。
来たからには会いたい。
それでも前回の言葉が蘇り、どうしても躊躇わせる。
「淳平君を嫌な目で見てしまう」
そう思い込むのが楽だからと、言葉を濁らせてはいたが、結局のところ会えないのだろう。
そこをあえて自分から会いに行くべきなのだろうか。
それが、躊躇の原因だった。
指がインターフォンに伸びては戻る。
何度繰り返しただろうか。
やがて淳平は、あきらめたように、そこの駐車場に座り込みうつむいた。
俺何やってるんだろ・・・
そう思うと、不意に悲しくなった。
感情がコントロールできず、落ち着かない。
情けなく、小さく思えて仕方がなかった。
じわりと瞳が熱くなる。
涙の感触が思い出され嫌な気分になった。
しかし体が泣こうとしていた。
結局自分一人では何もできない無力さ。
つかさを励まそうと思いながらも、怖くて会えない情けなさ。
何も変えられない無意味さ。
ここにいることへの疑問。
様々な形の自己嫌悪が降り注ぐ。
そんな時だった。
「淳平君?」
聞き慣れた声がかけられる。
振り向くとつかさがいた。
手に持った荷物から外出していたことが分かった。
もしさっきインターフォンを押して返事がなかったら、居留守をされていると思い帰っていただろう。
そう考えると、自分の臆病さにも感謝できた。
つかさと目が合い、無音の空間が生まれる。
何度見ても、その美しさに心を奪われる。
二人に間に吹いた風がやけに冷たく強かった。
「泣いてる・・・?」
そう問われて急いで目を拭った。
ただ潤んでいるぐらいだと思っていたが、しっかりと雫が頬を伝っていた。
そこまで弱くなった自分がおかしく、心の中で自嘲していた。
「どうしたの?」
再度問われる。
返答に迷った。
なんと言えばいい?
会いに来たなんて言ってどうなるんだろう。
確かに本心であるが、言葉にすれば中身のない台詞でもある。
「用はないけど」
自然にそう答えていた。
用はないけれど会いに来た。
それこそが、会いたくて会いに来た、ということでもある。
つかさは一瞬戸惑った表情を見せるが、すぐに元に戻り、静かに見つめる。
「ごめん・・・前にも言ったけど・・・」
それは予想していたことだった。
きっとそう答えるのだろう。
だからこそ、その後ことをうつむいている間考えていた。
結論は、すぐに帰ることだった。
ここに長くいても迷惑をかけるだけだろう。
時間がすべてを解決してくれるわけではない。
事実、すでに半年を費やしてきたのだから。
それでも立ち直れないつかさはどうすればいいのか。
説得すること、何か大きな出来事に触れること、死から生へと目を向けること・・・。
でも今は時間が必要なのだろう。
いきなり戻ってきた自分にまくし立てられて、簡単に立ち直れるはずがない。
だから拒絶されたらすぐに帰ろう。
そう考えていた。
つかさは迷っていた。
淳平が来ても、追い返すだけ。
悪気があってではなく、自分がそうするべきだと思ったからだ。
嫌いたくない。
その感情は必ずあった。
だからこそ、今会いたくない。
そんな気持ちがいいわけに過ぎないと言うことも気付かず、何とか断ろうと思っていた。
だが、淳平はあまりにもあっけなかった。
「そっか・・・。じゃあまたな」
たった・・・たったそれだけの言葉を残して振り返り、歩き始めようとしていた。
顔が見えなくなる瞬間、正体の分からない恐怖に襲われる。
もう会えない気がしてならなかった。
「待って!」
いつの間にか引き留めている自分がいた。
取り残される感覚を嫌い、無意識のうちに叫んでいた。
「え・・・・・・あ・・・その・・・」
自分自身の置かれている状況すら理解できないほどに、パニックに陥る。
なんであたしは叫んでしまったんだろう・・・?
完全に心と体が違う行動をした。
というより、表面上の繕った心情と、深層心理とも言える本当の気持ちとの差だったのかもしれない。
戸惑っているのはつかさだけではなかった。
不意に呼び止められた淳平もである。
しかし、当のつかさも混乱している。
どうすればいいのか分からず、ただ立ちつくしていた。
つかさは少しの間考え込むように俯いていたが、やがて顔を上げた。
「その・・・怒ってる・・・?」
淳平は呆気にとられた顔でつかさを見返した。
思いがけない問いに一瞬答えを見失うも、すぐに我に返りつかさに微笑みかけた。
「そんなはずないって!
まあ・・・ちょっと残念だなぁって・・・
あ・・・いや・・・でもさ、西野が俺に会えないってのはそれなりの理由があるんだからさ。
俺が怒る権利なんてないしさ」
その言葉を聞き、つかさの気持ちは和らぐと思われた。
しかし、一向に表情をゆるめない。
逆に辛くなったようにも見える。
淳平の言葉は素直にうれしかった。
しかし、そのことがつかさに気を遣わせてしまった。
淳平君はあたしのわがままのせいで苦しんでるんだ・・・。
そう思うと、一方的に避けていた自分に、多少なりの罪悪感の感じた。
だからといって、昔に元通りでいいのだろうか。
やっぱり一緒にいたら嫌ってしまう気がする。
嫌ってしまいたくない気持ちもある。
こんなにも心配してくれる淳平を憎んでしまう恐怖もある。
だが、淳平のその澄んだ瞳を見て、つかさは考えを変えた。
この瞳が、映像関係者の中で、大きな評価を得ていることをつかさは知らない。
真実の瞳が写す真が、つかさには見えない。
それでもつかさが自分で選んだ行動。
数ある選択肢の中から選んだものだった。
「お茶ぐらい・・・飲んでく・・・?」
半ばあきらめかけていた淳平の顔が、すぐに明るくなるのが分かった。
期待と・・・希望に満ちた瞳。
淳平自身も、何かが進んだ、と感じていた。
もちろんすべてが解決に向かっているとは考えがたい。
それでも、後戻りをしているわけでなく、少しずつ動き始めている。
つかさの心を開く・・・
そういった気負いというものはなかった。
会いたかったからここにいる。
後悔はしない。
先ほど感じたそれらの思いが、繋がっていく。
部屋には無駄なものが一切なかった。
死・・・無・・・
負のイメージを強く感じさせた。
改めて、親しい人間の不在というものを感じた。
脱力感・・・困憊感・・・
亡き人の想い出がなくなるわけではない。
それらがあった場所に、透明の『無』が場所をとってしまうようなものだ。
いつしか『無』は大きさを変え、支配を強め、心を奪う。
必要最低限の行動が出来ればいい。
そんな心情が部屋から伝わってきた。
玄関からリビングへの間にキッチンが見えた。
淳平はふとそこに疑念を覚えた。
何もない。
つかさの家には必ずお菓子を作る道具が置かれていた。
しまうとか片付けるとか、そういう問題ではなく、必ずそこにあったものだ。
引っ越せば、配置も変わるし物も変わる。
道具がないことなど、本来ならば気にするようなことではない。
ただ、理屈など何もなく、感じたのである。
「西野は・・・ケーキとかまだ作ってる?」
口にした後、後悔した。
言わない方がよかっただろうか。
普通に考えて、ケーキと日暮れの死は関係づけられているだろう。
案の定、つかさの答えは作っていない、だった。
「やっぱり・・・思い出しちゃうから・・・」
トラウマだった。
ケーキを作れば、当然日暮れのことが思い出される。
パリでの想い出が蘇り、プロポーズされた事実と、日暮れの死という現実が突きつけられる。
それが耐えられなかった。
もう作り方すら分からないかもしれない。
その後、つかさは一度も笑うことはなかったが、それでも話を聞かせてくれた。
日常生活の中にしっかりと色づいた本場パリでの菓子。
自分がパティシエになっていくという実感とともに訪れる幸せ。
遠くに過ごす想い人と、すぐそばにいる神様のような存在。
選べてと言われても比べられない二人。
相談出来る人がいなかった日々…。
聞けば聞くほど、淳平は自らのふがいなさに打ち拉がれていく。
最後の一言は、胸に深く突き刺さった。
「もう…こういう話を出来るぐらい…悲しみに慣れちゃった。
だんだん日暮さんとの思いでも忘れてくのが分かる…。
でもやっぱりどうにもならない…。
日暮さんのことを忘れたからって…今の状況を抜け出せる気がしないもん…」
忘れてしまうことへの恐怖が感じられた。
自分はあんな大切な人をも忘れてしまうのか…。
そんなことだから…あんな苦しそうな顔をして死んでしまったんだ。
日暮れが死んだ際の苦悶の表情は決して忘れられず、まるで呪いのように心にまとわりついていた。
その後つかさは淳平の暮らしを尋ねた。
向こうでどんなことがあったのか。
「いろいろあったよ。
大学に入ったんだけど、なんか無意味に感じたんだ。
それで、そこの大学の映像研究部の顧問のコネで、上田栄蔵という人に会った。
映像関係の権威で、結構すごい人。
まあ弟子入りみたいな感じでその人と暮らして、最初は雑用やらされたんだ。
で、下山さんて人に出会って、いろいろなことを教わった。
下山さんも若かったから結構気もあったし。
それで栄蔵さんの『えいぞう会』っていう会にいれてもらって…。
まあそんな感じ」
淳平が話している間、つかさはどこか心ここにあらずといった感じだった。
「幸せそうだね…」
気の利いた言葉もかけられず、あからさまな皮肉がこぼれてしまう。
しかし、つかさは自分が皮肉ったことを悪いと感じられない。
嫌ってしまうかもしれないとあれほど心配していたことが今起ころうとしている。
それでも自分に非があることを認められない。
それが淳平の幸せな生活に対する嫉妬から来ているのか…
それとも日暮れとの想い出の中に、相談にすら乗ってくれなかった淳平を思い出したからなのかは定かでない。
もう止められなかった。
「ごめん…帰って…」
柔らかい表現も、微笑みながらのさよならも、何も出来ない。
ただ苦しみの表情を浮かべ、一言呟くだけだった。
淳平は、その言葉に悲しみに近い感情を覚えたが、しかし素直に従う。
「分かった…。
また来ていいかな…?」
つかさは答えない。
ただそこに立ちつくすのみである。
その姿に、淳平は悲しい笑みを見せて扉を開けた。
ひんやりとした空気が中へと入り込む。
じゃあ、と一言を残し去っていった。
バタンと扉が閉まる音がすると、その後は無音の空間が広がる。
閉まる瞬間、自分が手を伸ばしかけたのに驚きながらも、これでいいんだと自ら語りかける。
これ以上いたら、淳平君をどんどん嫌いになっちゃう。
どうしようもない無力感とともに、ドアに寄りかかった。
瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
外は真っ暗だった。
所々の街灯が切れてしまっている。
そんな中を淳平は一人で歩いていた。
先ほどのつかさの言葉が蘇る。
『幸せそうだね…』か…。
そうなのかな…。
そうなのかもしれない…。
真実の瞳は、輝きを失っていた。
そこに写るのは、真実という名の悲しみだった。
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