『WHEEL』 第4章―言えない関係―  - 光 様



 この世のある一つの出来事は、この世のその他全ての出来事との

相関により生じる。故に、本来ありえない所に、あり得ないはずの

風を吹かせてしまうようなことは、“彼女”には許されない。もし

も手違いに気が付けば、すぐにでも修復されなければならな

い。・・・そう、あくまで“気が付けば”。


 “彼女”はまだ気付いていない。あのときの風がもたらした変化

に。様々な異常に。よって、未だ修復されない。たとえ気付けない

程の小さな歪みだとしても、その歪みはまだ消えず、そっと何かを

変えていく。ゆっくりと、確実に。


「志望校を変えたい?」

 耳についた先生の声に、つかさは無意識のうちにそちらを振り向

く。声の主は4組の担任の山岡先生。つい二日前、淳平たちに校庭

50週を言い渡した先生、ということで、その時のつかさの頭に

は、少々強烈に印象が残っている先生だった。改めて考えてみれ

ば、あの時山岡先生が淳平に校庭を走るように言っていなければ、

自分たちは付き合い始めなかったどころか、出会いすらもしていな

かったのではないか。そう考えてみると、つかさは山岡先生に感謝

したいやら、それは少し飛躍しているかな、と思うやらで、中途半

端な苦笑いを浮かべた。

 それにしても、とつかさは思う。

(こんな時期から志望校の変更、って・・・?)

 普通、志望校を変えるといえば、学力が思っている以上に伸びる

のでもっと上のランクの学校を狙いたいと思うか、逆に本番までに

は勉強が間に合わなそうなのでランクを下げるか、である。だが、

いずれの場合にしても、それはもっと本番に近付いた11月頃にな

ってから増えだす話題であり、夏休み前のこの時期からもう変えて

しまうというのも不思議な話である。

 相談を受けているのが山岡先生ということもあり、つかさは一瞬

だけ「もしかして」と思い、相談を受けに来ている生徒がよく見え

る位置まで体の位置を合わせる。


 つかさが職員室に行く数時間前。正確には、淳平がつかさから芯

愛高校のパンフレットを受け取った直後、淳平はほとんど放心した

ような状態で教室に戻っている途中だった。

(断れない・・・・・)

 頭の中でボソリと呟く。

(あんなにワクワクしてて楽しみにしてる西野に、今更志望校が違

うなんて言えねぇ・・・)

 かと言って、自分のやりたい事を犠牲にしてまで一人の女の子と

付き合えるほど、淳平は大人ではない。

 では、どうするのか・・・。

 淳平は、はたと立ち止まり、窓の外に目をやる。位置の関係上、

今淳平がいる廊下には直射日光が入ってこないので、この時期でも

壁や床が少しひんやりとしている。そんなところから見える空は、

今日も抜けるような快晴である。遠くの方に浮かぶ、自分とは対照

的に、自由気ままに、気持ち良さそうに浮かぶ雲が、なんとなく憎

たらしい。

 そのまま、空気が重くなるようなため息を一つ漏らし、淳平は教

室に向けてずるずると歩き出した。


「はい。やっぱり挑戦してみたいんです。」

 思わず「あ」と言いそうになり、慌てて口を噤むつかさ。

 そこには、一人の女の子が立っていた。ピンやゴムでまとめら

れ、後ろで二本のお下げにしている黒髪。一部の乱れも見つけられ

ない程に着こなされた制服。肌の感じや、アゴのライン、顔のそれ

ぞれのパーツは非常に整っているが、文字通りその眼前、黒曜石の

ような瞳の前には、黒々とした縁のメガネが、でんとばかりにすえ

られていた。

 なんとなく、淳平の姿を一瞬だけ想像したつかさは、あまりにも

淳平とはかけ離れた容姿の人間の存在に、つい声を出してしまいそ

うになったのだった。

「う〜ん・・・まぁ、東城ぐらいの成績なら受けられない、っても

んでもないけどなぁ・・・」

「やっぱり、難しいですか?」

 メガネの少女の表情が、少しだけ曇る。

「まぁ、桜海は、大丈夫、って太鼓判を押せるような学校じゃない

からな。」

 そんなやり取りを聞いて、つかさは先生の本音に気付く。個人的

には、この生徒ほどの学力なら、桜海学園を受けてもまず受かるだ

ろう、と思っているのだろう。しかし、万が一その生徒が落ちてし

まった場合、立場上あまり無責任な発言もできない、ということな

のだ。

 それにしても、とつかさは思う。

(桜海学園かぁ・・・・・難しそ〜!アタシには届かない世界かな

ぁ。)

 つかさは、再びその少女に目を向けてみる。恐らくこのコはもの

すごく頭がいいんだろう、と思う。言われてみれば、何となくそん

な印象を受ける子である。

(けど・・・このコ・・・・・)

 つかさがその子に対して抱いた考えを頭の中で明確に思い浮かべ

る前に、つかさに声がかけられる。考えてみれば自分は、人間観察

をしに職員室に来たわけではないのであった。


「きゃはははは!」

 夕方の帰り道、つかさの明るい笑い声が辺りに響く。すぐ隣を歩

いている淳平は、ちょっと大げさな身振りをつけながら、テンポ良

くつかさに話しかけていた。

「淳平君って、ホント面白い人なんだね〜!」

「いや、アホなだけだって、マジで。」

 淳平がちょっと照れたように頬を引っ掻き、しかし、どこか得意

になってそう言う。つかさがまだおかしそうにクスクスと笑いなが

ら「そんなことないよ〜」と言って、目を細めて微笑み、漸く気が

済んだのか、ふぅっ、と一息ついた。

「なんか、淳平君と話してると楽しいなぁ♪」

 にっこりとして、ちょっとだけ鼻にかかったような甘え声を出し

ながら、つかさは自分に近いほうの淳平の腕にしがみつく。暖かく

て柔らかい女の子の感触に、少し心臓をドキドキさせながらも、淳

平は捕まっている方の手で、つかさの手を掴み、互いの指と指を絡

めるようにして手を繋ぐ。ついでに、さっきから肩に頬を寄せてい

るつかさの頭に、自分もそっと顔を寄せる。

(・・・とまぁ、そんな妄想をしては見たものの・・・・・)

 やっと現実に返ってきた淳平が苦笑を浮かべないように気を付け

ながら自分の置かれた状況を見ると、

「淳平君って部活、体育会系?文科系?」

「体育会系」

「えー、意外かも!何部?」

「サッカー部」

「ふーん。ポジションどこ?」

「・・・ベ、ベンチ・・・・・」

「あはははは!」

 暫しの沈黙。

「・・・・・ねぇ、キミはあたしに聞いてみたいこととかないわ

け・・・?」

 ほとんど呆れ気味のつかさの台詞。

(現実は、こうだもんなぁ・・・)

「あー・・・あるある!えっとぉ・・・・・」



西野は何部に入ってるの?



(これだと、西野も同じようなこと聞いてたから、つまらないヤ

ツ、って思われそうだな)



西野の趣味は?



(見合いかってーの・・・んなこと聞かねぇよな、フツー)



 西野の胸は何カップ?



(・・・って、それじゃただのセクハラだろ・・・しかも間違いなくハタ

かれるし・・・)

 つかさからは見えない心の中で、淳平が自分の発想の情けなさに

悶え、ようやく(好きな芸能人でも聞くか)と、無難だが、なんと

なく情けない質問が頭に浮かんだ。

 ちょうど、その時だった。



♪〜♪〜♪



「あ!」

「ん?」

 つかさが小さく声をあげ、鞄の中をゴソゴソとまさぐりだす。何

かと思ってみている淳平の目の前で、つかさが鞄から手を抜くと、

その手には携帯電話が握られていた。

 淳平達が通う泉坂中学校では、生徒が学校に携帯電話を持ってく

ることは、禁止されている。つまり彼女は、それを破って携帯をも

っていっていることになるわけだ。が、そんなことより、何よ

り・・・

(着メロ・・・・・笑点っすか・・・)

 なんとなく、今自分が聞こうと思っていた質問に、間接的に答え

られた気がして、淳平は隠しきれないほど大きく、頬をヒクつかせ

た。が、最初のその衝撃を乗り越えてしまうと、淳平の目は徐々

に、携帯の上で流れるように踊るつかさの白い指を、どの動きも見

逃さないほどに見つめていた。

「・・・・・」

「・・・・・」

 しばしの間、無言のままディスプレイを見つめていたつかさは、

届いたメールの返信の文を打ちながら、ゆっくりと歩き出した。メ

ールに集中しながらだから、どうしても小股でのろのろと歩くしか

できないのだから、当然、すぐ隣にいた淳平も、ペースを合わせて

後ろをついていっている。

(でも・・・)

と、淳平は思う。

(なんだかなぁ・・・・・)

 つい先程まで、視線を奪われたように見つめていた淳平は、今度

は少しだけ眉根を寄せてつかさの方を見やる。

(彼氏と二人っきりでいるときに、そんなにメールに集中するもん

なのかな・・・)

 自分でもアホらしいことは重々承知しているのだが、ほんの少し

拗ねてしまいそうになる。物相手に嫉妬をしてもどうしようもない

というか、下らないことではあるのだが、はっきり言って、面白く

はない。

(携帯かぁ・・・)

 更に一言、心で呟く。こうやって、お互いに顔を突き合わせて話

していると、どうしても、照れが先に出てしまう。焦って言葉が出

てこず、ろくに会話が続かないが、メールだったらもう少しまとも

にやりとりできるのでは、と一瞬そんなことを思い浮かべる淳平。

「西野・・・携帯とか、持ってんだ?」

 漸く淳平が口を開いたのは、つかさが二、三回ほど文章を打ち直

して、ざっと中身を確認し、送信のボタンを押して、パタンと小気

味いい音をたてて携帯を閉じてからだった。

「え?・・・あ、ごめんねー!アタシ、一つのことに集中すると、

他の事放ったらかしにしちゃうから。」

 片目を瞑り、ピンク色の舌先を真っ白な歯の隙間からちょろっと

覗かせて、つかさ流の“ゴメンね”ポーズをしてみる。

「あっ、そうだ!ちょっと、待ってね!」

 愛くるしい表情と仕草に、淳平がまたまた意識をとばしかけてる

その目の前。つかさは突然、鞄の中をゴソゴソと探り始めた。そし

て、右手を鞄に突っ込んだまま、今度はその場でしゃがみこんでし

まう。ポカンと口を開けてその様子を見ていた淳平が「何やってん

の?」と聞くと、つかさはちょっとだけ笑い、立ち上がりながら、

鞄から手を抜く。

「淳平君に、良いものあげるねっ!」

 ニッと笑顔を浮かべながら、淳平の鼻先に何かをかざす。反射的

に受け取ったそれは、可愛らしい形の、小さなメモ用紙だった。授

業中に、クラスの女子たちがそれを使って、何やらお喋りしている

のを、淳平も何度も目にしていたが、実際にこの手の紙を自分が手

にするのは初めてのことだった。

「・・・?」

 最初裏向きだったそれをひっくり返す。するとそこには、『09

0』から始まる十一桁の番号が、残りの八つを四桁ずつに区切った

ものが書かれていた。

「西野・・・これって・・・」

「そ、アタシの携帯の電話番号。」

 軽く頷くつかさ。メモに穴を開けてしまいそうなくらい、淳平が

その番号を凝視していると、つかさは妙なことをしていた。右手の

人差し指で自分の耳をつんつんと指差し、ついで、その手をそのま

まの位置で、ちょいちょいと手招きをする。

(耳を貸せ・・・・・ってことか・・・?)

 何とか意味を拾った淳平が頭を傾けて耳を寄せると、つかさは手

招きしていた方の手で口元を隠し、淳平の耳元で小声で囁く。

「他の人には、教えないでよ?この番号、アタシの家族と淳平君し

か知らないんだからね!」

 そう言って顔を離したつかさの頬は、ほんのりと桜色だった。な

んとなく胸の内側にくすぐったさを覚えたつかさは「じゃあ、アタ

シこっちだから!またね!」と言ったきり、小走りに去っていって

しまった。

 しばし放心状態だった淳平の顔が、徐々ににやけてくる。

(西野の・・・・・携帯番号かぁ)

 その携帯電話についさっきまで嫉妬にも似た感情を抱いてたのだ

から、実に現金なものである。が、今の状態の淳平には関係なく、

思いっきりしまりのない表情を浮かべている。

『アタシの家族と淳平君しか知らないんだからね!』

「かなり優越感・・・しかも」

 淳平はつかさの走って行った曲がり角を見る。

(普段、俺もその道で一緒に帰ってるんだけどな。)

 照れて先に帰ってしまうなんて、西野も可愛いところあるんじゃ

ん、などと考えながら、淳平は、ほとんど跳ねるようにしながら、

つかさが曲がった角に向けて歩き出す。

 そして、曲がった先が視界に入るところまで行ってから、淳平は

急に立ち止まる。次いで、今度は本当に、元来た道の方へ一気に跳

び、壁に張り付いた。

「・・・・・・・」

 部活のあととも、この時期に寝る時に暑さに悶えているときのも

のとも違う汗が、体の表面を伝い、ダラダラと流れ出す。

(今の・・・)

 恐る恐る、再び曲がり角の先に目をやる。ついさっき見た光景が

幻であったかのように、そこには何も無かった。

 しかし、

(今のダレ?)

 淳平は確かに見た気がした。

 角を曲がって十数メートル先。西野つかさが、明らかに自分たち

より年上の男と、談笑しながら並んで歩いていた。



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