第8章『あいたがひ 覚束無しや 桜人』 - 光  様



 花の色は 
     
    うつりにけりな
     
          いたづらに

              わが身世にふる

                   ながめせし間に
                    
                       小野小町 

歌意: 桜の色はすっかりあせてしまったなあ。
そして、私の容色も衰えてしまった。
長雨が降り、物思いにふけっている間に。



























 約12時間、見渡す限りの大空を我が物顔で闊歩し、消える刹那

までその空を鮮やかな橙色に焼いた太陽が、その身を山の端に隠

す。それを見計らっていたかのように、“そいつ”は現れた。地上

の人々はその出現を目ざとく見つけると、一様にその巨人に対して

得心のいかぬ様な一瞥を投げかける。昼間の空模様からは誰も想像

も出来ない―――そして、誰も望んでいない―――雨雲が徐々に上

空に広がり、やがて、誰もが予想した最悪の物をもたらした。

 遥か天空より落つる雨粒は、地を、人を、建物の屋根を、それに

勿論、咲き誇る桜を打つ。目を見張るほどに咲いている桜を散らせ

る力も無いほどに弱々しく降る雨は、実はそれが一時のものではな

く、確かな強さで降るそれよりも、降っては止み、降っては止みを

繰り返しながら長く降り続けることを、暗黙のうちに物語ってい

る。





 しとしとと降る雨につややかな髪を濡らしながら、つかさは一

人、暗がりの中に座り込んでいた。時折、細い指先が無意識のうち

に動き、雨水を含んだ前髪をよけている。それ以外全くと言って良

いほど動こうとしていなかったが、やがて小さなため息を一つ吐く

と、抱えていた膝に額を当てて俯いてしまった。

「はぁ・・・。」

 再び、小さなため息を一つ。透き通るように白く形の良い頬を、

小さな雫が流れていくが、それは空から降ってくるものであり、彼

女のものではない。

 つかさは、泣いてなどいなかった。淳平と別行動をとってから今

まで、涙はつかさの目に溜まることも、そこから溢れてくることも

なかった。実際彼女は、自分が泣けば良いのか、怒れば良いのか、

どうするべきなのかがわかっていなかった。何もせず、ひたすらに

淳平の顔を、怒りも愛情も、何の感情も持たず思い浮かべ、ただ一

人、静かに座っていた。

 ふと、つかさがピクリと眉を動かし、顔を上げた。ざわざわと、

大勢の人声が聞こえたのは、どうやらつかさの気のせいではないら

しい。見てみれば、つかさのいる位置から視界に入る全ての人たち

が、やや足早に一方向に向かって進むのが見えた。

「なんだろう・・・?」

 ポツリと呟きゆっくりと立ち上がると、つかさは己が好奇心に身

を委ねて歩き始めた。































 右から押され左から潰されながら、淳平は大勢の人がいる中で走

り回りながら、あちこちに視線を走らせていた。途中、何度もピク

ッと反応しては、目当ての人物を見つけたような気がしたのが、自

分の気のせいであると気付かされながら。

































「くそ・・・」















































 淳平の口から、短いののしり言葉と同時に、チッという舌打ちの

音が漏れる。荒れた気息を整えるために一度立ち止まり、膝に手を

ついて、肩で大きく息をする。













































(違うんだ・・・)





















































 聞くもののいないとわかっている言葉を、心の中だけで呟く。

(西野に・・・、早く西野に話さないと・・・)

 ブルルッ、と頭を振り、淳平は漆黒の夜空を見上げた。雨脚が確

実に弱くなってきている。背後にある月の光でシルエットとして浮

かび上がる憎き雨雲は、驚異的な速さで流れていく。風が強すぎ

る、と淳平は思った。

「このままだと・・・。」

 思わず口に出し、左腕を持ち上げて腕時計を覗き込み、雨水に濡

れている眉根を僅かに寄せた。

 淳平の頭の中に、昨日の光景が蘇る。

『ね・・・お願い。』

 前日の夜、恐らくつかさの耳にも届いたであろう綾の言葉を、淳

平は再び思い出す。

「急がないと。」

 他の誰でもなく、自分自身にそう言い聞かせて、淳平は再び人ご

みの中を猛進していく。駆け出した淳平の足を最後に、地面の水溜

りを波立たせるものはなくなる。一時雨粒を落とし終えた雲を除

け、月が顔を出すまで、そう時間はかからない。





































 淳平が綾の言葉を思い返しているちょうどその時、数十m離れた

ところで、つかさは人の流れに従って歩いていた。この行列に加わ

ってから十数分が経過したが、つかさは未だに自分が参加している

この行列が何であるのかがわからなかった。ただ、周りの人々が

「もうすぐ」とか「楽しみ」などと言う言葉を何度も口にしている

ことから、この先で何か始まるのだろう、ぐらいの予想はしていた

が。












 人の流れは、何の前触れもなしに止まった。すぐ前を歩いていた

人にぶつかりそうになって、つかさが地面についている足に力を入

れる。

































































「うわ・・・。」

















































































 直後、つかさは全ての動きを放棄して、周囲の人々同様、顔を上

げていた。

 つかさの視界いっぱいを、桜の木が覆いつくしていた。それもた

だの桜ではなく、完璧にライトアップされた夜桜だ。






































































「すごい・・・」

 ぽかん、と口を半開きにして、つかさは昼間見ていたものとは全

く違うものを見るような感覚で、目の前の光景を見つめていた。各

木々の根元に置かれた照明に照らされ、幻想的なピンクに輝く桜

は、つかさが子どもの時に絵本で読んだ妖精の光のそれに、どこま

でも似ているのだった。

 つかさはこの瞬間、全てのことを忘れていた。何も考えず、ただ

目の前の光景に感動し、美しさの波にどこまでも深く呑み込まれて

いった。


























































 うっとりと、やや目を細めて桜を見やるつかさの手が、無意識の

うちに空間を泳ぐ。いつも隣にいた彼の手を、温もりを捜して。つ

かさが、自分が求めている手に今触れることはないのだと気付く直

前、ふらふらと彷徨っていた彼女の手を、誰かがガシリと掴んだ。














































































「お疲れ様でした。」

 入り口まで送ってきてくれた担当編集者に丁寧に頭を下げ別れる

と、綾は、うーん、と伸びをし、静かな夜空を見上げた。

「なんか嫌な雲だなぁ。あっちは、大丈夫かな?」

 誰にも聞こえないほど小さく呟き、そのままぼうっ、と空を眺め

る。綾が、ほとんど身動きもせずに固まる。前日の夜、向こうであ

った出来事を思い出しながら。

















































「真中君・・・。」

 その時の彼の顔を思い出し、クスリと笑みを漏らす。外見はこち

らがドキリとするくらいすっかり大人びた彼の中に、未だ残る子ど

もらしい、初々しい部分が見えたような気がして、実際の年齢差は

ほぼ無いに等しいにも関わらず、思わず「かわいい」と思ってしま

っていた。

 ややあって、綾がゆっくりと歩き出す。この世に二人、綾本人

と、その彼にしかわからぬ言葉を、その場に小さく響かせて。














































































「頑張ってね、真中君・・・。」
















































































 踏みしめた足から伝わる振動で、額を流れている汗が地面に落ち

る。境内の桜を夜空に浮かび上がらせているライトも届かぬ木々の

奥。淳平は、ぬかるんだ地面に何度か足をとられながら、ずんずん

と明かりとは逆の方向に歩いていっていた。

「ねぇ・・・ちょっと、淳平君!」

 わき目も振らずに猛進する淳平に手を引かれながら、つかさが語

気を強めて声をかける。桜に見とれていたとき、急に手を掴まれ、

人ごみから引きずり出されたつかさは、正直、何故自分が淳平と、

今現在このような状況にいるのか全くわかっていない。それもその

はず。つかさは何の説明も受けていない。淳平はただ「一緒に来て

欲しいところがあるんだ」とだけ、つかさに伝えたのだった。つか

さが何度か理由を聞こうと試みるも、「時間がないんだ。後で詳し

く話すから」と、一番まともな答えでもそんな感じだった。

 右も左も、前も後ろも、自らの足元すらまともに見えない状態

で、訳も判らぬままに引っ張られ続け、ついにつかさも黙っていら

れなくなった。

「ッ!?」

 掴んでいた手を振りほどかれ、淳平は困惑気味につかさを振り返

る。怒りとも、悲しみともつかぬつかさの表情を目に留め、ほんの

一瞬言葉に詰まったかのように見えたが、何とか、慎重に言葉を選

びながら口を開いた。

「お願いだよ、西野。一緒に来てくれ。」

 つかさは、首を横に振った。俯き、垂れた前髪が顔を半分ほど覆

い隠していて、おまけに星の光も届かぬほどの暗闇だったが、つか

さの目は閉じているだろうと、淳平は思った。

「西野、頼「・・・どうして?」えっ?」

 闇の中で、つかさが顔を挙げる動きを感じる。つかさの、聞き取

れないほど僅かに震えた声が、見えないつかさの表情を淳平に伝え

ている。





























































「どうして何も言ってくれないの?ねぇ、どうしちゃったの?」























































 音が光と同時に貪られていく様を、二人は共感している。少しは

なれたところで鳴いている名前のわからない虫の声以外に何か聞こ

えてこないかと、つかさは耳に全神経を集中させている。が、いつ

まで待とうとも、淳平は声を発しない。重圧を感じるほどの静寂。

時の流れる音ではない音さえ聞こえてきそうなこの状況で、どうし

て最も愛するもの声だけが聞こえてこないのか、と悔しくなり、一

番発したくない言葉を、つかさが口にする。

































































「東城さん・・・・・なの?」

































































「あ、いや!・・・別に、その・・・」

 つかさにとって、発したくない問い。それは同時に、淳平にとっ

ても聞かれたくない問いのようであった。声とは呼べぬ様な音をの

どから出して、見る見るうちに小さくなっていく。決して否定の色

を見せようとしないその態度に、つかさの中で、ついに何かが崩壊

した。


























































「・・・帰ろう。」

「待って!」

 くるりと振り返るつかさの腕を、淳平が捕まえた。

「お願いだから、今は聞かないで。俺のこと、信じ・・・」








































































「淳平君のことなんか、もう信じられない!!!」













































































 枝の上で叩き起こされた鳥たちが数羽、一斉に飛び立つ音がし

た。

 とうとう、我慢し切れなかった涙が、つかさの瞳からあふれた。

長時間留めることは出来ても、一度流れたものを止めることの出来

ない涙を、つかさは敢えて止めようともせず、その場で顔を覆って

泣き始めた。

 つかさの嗚咽のみが聞こえてくる沈黙。長い間、暗闇に焦点を彷

徨わせていた淳平だが、やがてぽつり、と呟くように言う。

「ごめん・・・。」

 喉から搾り出す掠れた音を鼓膜に感じながら、淳平はゆっくり

と、寂しい朗読のように言葉を紡ぎだす。

「西野の言いたいこと、わかる・・・と、思う。だけど、今はとに

かく時間が無いんだ。」

 しゃくりあげるつかさの肩に、暖かさが加わる。視界をふさいで

いた手をどけると、淳平がしっかりと両肩を捕まえて、まっすぐに

こちらを見つめていた。

「・・・ちゃんと説明するから。その後でなら、どんなに西野に嫌

われても構わない。だから・・・」

 永遠のような一呼吸を置き、




















































































「俺のこと、信じて・・・。」














































































 僅かにすすり泣きながら、淳平の方を見つめ返す。瞳にこめた了

承の意を認め、淳平は再び、つかさの手を引き、歩き出した。

 さっきの淳平の目を、つかさは今までに一度、目にしたことがあ

った。忘れもしない、高3の九月。真っ暗な中、誰もいない公園

で、初めて淳平とキスをしたあの時。あの時淳平が言った台詞。

「中学の時とは全然違う気持ち」その台詞を聞きながら、夢のよう

な一瞬に引き込まれる直前、最後に見た淳平の目に、今正に再び会

ったのだった。

 一抹の不安が、無いわけではない。彼でなければ、この暖かい手

を、また振り払っていたかもしれない。しかし、つかさは知ってい

る。あの眼差しを信じて、傷ついたことはあっても、間違ったこと

は一度だって無い。あの真っ直ぐな目に、自分はわくわくさせられ

てきていた。あの真剣な表情だから、自分は淳平に・・・。






























































 数分間淳平に手を引かれて足早に歩くと、どうやら二人は木々の

乱立する林を抜けた。ここはどこなのだろうか。街頭も、それの代

わりになるような物も無いので、辺りは依然として真っ暗なまま。

 つかさは、何とも言えぬ不安を覚えて、存在を確かめるように淳

平の手を更に強く握った。先程とはうって変わって、随分と開けた

場所に立っているらしい。すぐ近くから水の流れる音が聞こえてい

ることから、どうやらどこかの川原にいるようなのだが・・・。

「ふぅ、ぎりぎり間に合った・・・。」

 すぐ隣で淳平が、大きく安堵のため息をつくのが聞こえる。つか

さの目が徐々に慣れてきて、薄ぼんやりと淳平の輪郭が見え始めて

きた。顔を挙げて真っ黒な夜空を見上げている淳平の視線をたどる

と、そこには、よく目を凝らさなければわからない程度に欠けた月

が、流れる雲の脇からそっと顔を覗かせているところだった。月明

かりで、手前の雨雲がシルエットになって浮かび上がっているの

が、何とも風流であった。

 月が完全に姿を見せるまで、つかさはその様子を見つめていた

が、ふと、淳平に肩を突かれて、振り向く。

「見てよ、西野。」

 つかさが、怪訝そうに眉根を寄せる。淳平が指差す先は、真っ暗

闇が広がっているだけのはずだが・・・。
















































































 つかさは、目を大きく見開いたまま、ピクリとも動かなくなる。

視線の先にはブヨブヨと闇が存在しているだけかと思っていたの

で、“それ”を目にした途端、言葉を失った。

 つかさが見つめる先には、一本の枝垂桜の木があった。が、ただ

の桜ではない。黒一色の背景の中に、その桜だけが、遠慮がちな月

光に照らされて闇夜にぼぅっ、と浮かび上がっているようであっ

た。集愛神社の境内でライトアップされていたものとはわけが違

う。まるで、桜それ自体が淡い光を放っていて、薄くぼやけて見え

るような、何とも形容し難い美しさで立っていた。











































「綺麗・・・。」

 つかさが、自分でも意識しないうちに、ポツリと呟く。にわかに

は現実であると信じられないような光景を目にして固まることしか

出来ないでいるつかさに、淳平が優しく声をかける。

「これを、西野と一緒に見たかったんだ。雨が降ってきた時はどう

なることかと思ったけど、雲が晴れそうだったから、また降り出さ

ないうちに見なきゃ、と思って。」

「でも・・・、淳平君、なんでここの桜のこと知ってたの?」

「あ〜・・・・・いや、それは・・・」

 つかさの何気ない質問に、何故かうろたえまくっている淳平。つ

かさはきょとん、と首をかしげて、俯きがちになっている淳平の顔

を覗き込んだ。






















































「その・・・東城に、教えてもらったんだ。」

「えっ?東城さん・・・?」

 意外な人物の名前を聞き驚くつかさに、淳平が首を縦に動かし、

肯定する。

「その・・・西野、何か勘違いしてるみたいだから、言うけ

ど・・・」
 


前日の夜

 眠ってしまったつかさに布団をかけてやり、一旦は自分も眠りに

就いた淳平だったが、深夜、喉が渇いて目を覚ました。中途半端に

寝て起きてしまい、更には酷く口の中が乾燥していて、最悪の形で

の寝覚めとなった。

(下の自販機で、お茶でも買ってくるかな・・・)

 つかさを起こしてしまわぬよう、ゆっくりとベッドを抜け出し、

財布を持って外に出た。すると、

「あれ?真中君?」

「んあ?・・・あれ?どうしたの、東城?」

 廊下には、既に綾が淳平がこれからやろうとしていたことを終え

て、部屋に戻ってくるところだった。聞けば、綾も自動販売機まで

お茶を買いにいっていたとのことだった。

「んじゃ、おやすみ・・・。」

「あ、待って、真中君。」

 別れを告げ、自分も1階に降りようとした矢先、急に綾に呼ばれ

て、淳平はくるりと振り返った。

「何、東城?」

「うん、えっと・・・。」

 振り返った淳平と目が合った途端、呼び止めた綾の方から目を逸

らしてしまう。どうしたんだろう、と淳平は小首をかしげると、や

がて綾が、おずおずと口を開いた。

「真中君・・・西野さんとは、仲良くやってる?」

 ただでさえ静かな状況なのが、より一層静けさが深まった。正

直、あまり言い沈黙ではない。

「うん、まぁまぁ・・・かな?」

 淳平にはわからなかった。彼女は、昔のこととは言え、自分のこ

とを好きでいてくれたはずだ。面と向かってではないにしても、告

白だってされているし、センター試験の後、勉強中に居眠りをして

しまった時に、寝込みを襲われ(?)キスまでされた。それが、ど

うしてこのタイミングでつかさの話が出てくるのだろうか。

 淳平がひとりで思案しているのを他所に、綾は続けて口を開い

た。

「あの、真中君たち、明日集愛神社のお祭り行くんだよね?いいこ

と教えてあげるね。実はね、あそこの裏の林を抜けた先の川原に、

桜の木が一本生えてるんだけど、明日の夜、天気がよかったらそこ

に行ってみて。」

「え・・・」

「私も一昨日見てきたんだけど、その桜がね、月に照らされるとす

っごく綺麗なんだよ。誰もいないから、すごくロマンチックだし、

きっと西野さんも喜ぶわ。」

「でも、何で?」

 綾が話し終わるのを見計らって、淳平が質問を投げる。“何

で?”には、色々な意味が込められている。何で地元の人間でない

綾がそんなことを知っているのか。何でわざわざそれを自分に教え

てくれたのか。“何で自分と一緒にそこへ行こうと誘わないの

か”。

 綾の答えで、綾が淳平の発した“何で”の意味を、正確に捉えて

いたことがわかった。
































































「私ね・・・、今でも真中君のこと・・・大好きだよ。」

 静かでありながら、重く、確かに、綾の言葉が響く。淳平が返事

に窮していると「でもね・・・」と、綾が続ける。

「同じくらい、西野さんのことも大好き。西野さんが出てくれたお

かげで、2年生の時に撮った『夏に歌う者』も、すごく良い作品に

できたから、素敵な思い出になって。それに、真中君に・・・。」

 三度、短い沈黙を挟み、綾が言う。

「真中君に出会えて・・・私が本当にやりたいことも見つけられた

の。前にも言ったけど、真中君を好きだったことも、結局想いは実

らなかったことも、全部に感謝してて・・・私、高校3年間、本当

に幸せだった。」

 だから、と言いかけ、ほんの少し、うっと言葉に詰り、気持ちを

落ち着かせてから再び話し出す。

「だから、あの綺麗な桜を、二人にも見てほしくて・・・。真中君

は心配してくれてるけど、私は大丈夫・・・・・だから、そうし

て?」

 綾の話を、じっと聞いていた淳平の頭の中に、遠い記憶が蘇っ

た。忘れもしない、2月13日。雪に覆われた真っ白な公園。確か

に未来を見つめていた、どこか寂しげで、それでいて晴れやかな、

綾の顔。情けなくて、悔しくて、止められなかった涙。

「あ・・・でも」

 何かが、淳平の中でのた打ち回っている。あの時、さつきも選ば

ず、綾も選ばず、つかさを選んだことは、本当に良かったのだろう

か。今ここで、綾に優しい言葉をかけてあげれば、彼女は喜んでく

れるのではないか。

「ね・・・お願い。」

 でも、と淳平は思い直す。それは、できない。それはつかさの想

いを、綾の決意をも裏切ることになるから。つかさを大事にするこ

とで、綾が身を引いてくれたことへの、何よりの感謝になると思う

から。

 やがて淳平が恥ずかしそうに微笑み、口を開いた。

「うん・・・解った」

「ふふっ、良かった・・・」

 綾が嬉しそうに、ホッとしたように笑顔になる。花が咲きそう

な、天使の笑顔。






































































「別に、西野が想像してたようなことがあったわけじゃないんだ。

確かに、東城のことは、今でも大切に思ってる。でも、俺の一番

は、やっぱり西野・・・だからさ。」

 照れ笑いを浮かべながら話す淳平に、つかさもほんの少し頬を緩

ませて、僅かに赤くなりながら俯く。

「で、でも・・・だったら何でそのこと、アタシに早く言ってくれ

なかったの?」

「あー・・・・・それは、なんつーか・・・」

 曖昧な返事しか返さない淳平に、つかさの表情が再び曇り始め

る。淳平は、何度も口を開いては、飛び出しかけた言葉を呑み込

み、また何かを口にしそうになっては、がりがりと頭をかきむしっ

ていた。













































































「その・・・・・驚かせたくて・・・」

「えっ?」

 返ってきた答えに、一瞬きょとんとするつかさ。その反応を見た

淳平は「だ、だから!」と、何かを諦めたかのように語りだした。

「その・・・今まで知らなくて・・・・・他の女の子から始めて聞

いた所に連れてきただけ、ってのじゃ、なんか・・・・・カッコ悪

ぃから・・・」

 それ以上、恥ずかしくて何も言えなくなってしまった淳平を、つ

かさは何も言わずに見つめていた。と、














































「バカッ・・・」

「んなっ!?」

 突如聞こえた言葉に反応した淳平が、バッと顔を挙げると、つか

さが俯きながら言った。




































































「そんな、カッコイイからいけないんだぞっ!・・・淳平君のクセ

にぃ・・・」

 淳平に見えたつかさは、にっこりと笑っていた。目から、特大の

涙滴を、ボロボロと溢しながら。

「ホントに・・・すごく、不安だったんだから・・・」

 ついに本当に泣き出してしまったつかさを見て、淳平は慌てふた

めきながら、優しくつかさを抱き寄せ、

「ごめんな・・・。」

 耳元で小さく囁いた。つかさは、淳平の胸をハンカチ代わりに使

うことを決めたらしく、涙の滴る顔を、ぐいぐいと押し付けてい

た。

 そんなつかさを抱く腕に、少し力を込めて、もう一度囁く。





































































「なぁ、西野。俺って・・・・・・・やっぱり西野にはふさわしく

なかったのかもな。」

















































































「えっ・・・?」

「西野は、こんなに可愛くて、優しい、素晴しいコなのに・・・俺

は、その西野を不安にさせてるばっかりでさ・・・。」

「そ、そんなことっ・・・!」

 フッと、自嘲したような笑みを漏らす淳平。その言葉を、必死で

否定しようとするつかさの言葉を、更に強く抱きしめて遮り、「だ

けど・・・」と口を開く。













































































「ごめん。やっぱ、俺、西野がいないとダメだから・・・。」

 きつく抱きしめていた腕を緩め、つかさの顔をまじまじと見つ

め、再び零れ落ちそうになっている涙を、指で掬い上げる。

「迷惑かけると思うけど・・・、ずっと、そばにいていいか

な?・・・つかさ?」

 そう言い切り、やわらかく微笑む。つかさも、まん丸に開いてい

た目をゆったりと細くして、ぎゅっと抱きつく。

「いてもいい、じゃないでしょ?アタシが許可するまで、絶対に離

れちゃダメ・・・♪」





 十六夜の月に輝く奇跡の桜は、それから暫くの間二人を惹きつ

け、放さなかった。やがて、それまで遠慮していた雨雲が月を覆

い、雨粒を落とし始めるころ、夢の時間を過ごした二人は、手を取

り合いながら、林の中の元来た道を、戻っていった。



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