最終章『西に沈む陽』

 意識がはっきりするより前に、トモコの右手は反射的に目覚まし時計のスイッチを叩いていた。

少ししょぼつく目を頑張って開けて文字盤に目をやり、自分が勝ったことを確認する。


 ペンションの朝は早い。宿泊客達の朝食の支度もそうだが、

覚醒しきっていない状態でお客相手の仕事をするわけにはいかない。

ましてや、余程早起きでもされない限り、彼らよりも遅く起きるなどあり得ないことなのである。

トモコは一応毎日目覚まし時計をセットしてから床に就いているが、

今日の様にベルの音を待たずして目が覚めることも珍しくはなく、

最近では目覚ましが鳴る前に起きることを「勝った」と呼んでいる。

ここ何日か、トモコは“連勝中”である。

 しかしなぁ、とトモコは思った。

(今日は絶対に勝てないと思ったんだけどなぁ・・・。)

 自分に対して少々感心しながら、不意に天井を見上げる。

視線で天井を通り越し、恐らく今も幸せそうな表情を浮かべて眠っているであろう

友人二人のことを見つめようとする。

(行きはちょっと機嫌損ね気味だったのに、

帰ってきたら妙に機嫌良くなってたんだよなぁ・・・)

 その先を、トモコは敢て考えずにおいた。

これ以上ないくらいに意地悪く顔が歪んでいるのが、自分でもはっきりわかったからだった。

つかさも可哀想に、と小さく声に出して呟き、心の中でそっと合掌する。

その可哀想な目にあわせている張本人が自分であるという認識が彼女にあるのかどうかは、

この際追究してはいけない。

 両手で頬を少し強めにパシリと叩き、少し眠気の残る頭に喝を入れてから、

飛び跳ねるようにして起き上がったトモコだった。


一晩経って石化してしまったかのような瞼をピクピク震わせながら、

淳平の意識が夢から帰ってくる。次の瞬間、自分の体の重さに驚かされた。

全身の骨が鉄でできているのではないかと言うくらい重い。

ちょっと頬を掻こうと寝ながら腕をずらすことさえが重労働だった。

肘をついて体を起こすことが途方もないことに感じられる。

「・・・んん・・・・・?」

 喉からつぶれたような声を出し、淳平が何とかうっすらと瞼を持ち上げる。

実に数時間ぶりに光を取り入れて、淳平は平常時よりも5倍ほどの時間をかけて、

目の前の光景に焦点を合わせた。

「!?!?・・・にっ、にぃ・・・・・!?」

 お目覚め一番の非常事態に、淳平の体はひとまず先程までの疲労を、

都合よく忘れることに決めたらしい。

ビクッと上体を起こし、しょぼついてどうにもならなかった目は、

目尻が裂けそうなほど見開かれている。

 あたふたドタバタと、淳平が大騒ぎしたせいか(間違いなくそうであろう)

すぐ隣にいる人物が、眠そうに小さく唸り声を上げる。

すると、今まで優しく閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上げられて、

綺麗に透き通った水晶体が姿を現す。

「・・・んにゅ?」

 寝惚け眼で、ほんの少し間の抜けた声を出し、小さく欠伸をしようとしたところで、

淳平の存在に気付いた彼女は、ふわりと微笑み、口を開いた。

「おはよう、淳平君。」

 朝一番のつかさの微笑のショックが強すぎたのか、それとも他の理由からか、

淳平も何とか挨拶を返そうとするも、酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせているだけで、

そこから何か意味を持った音声は出てこない。

つかさはと言えば、未だ何が起きているのか理解していない様子で、

眠そうなトロンとした目で、小首を傾げた。

が、突然大きく目を見開いて「まさか」という表情を作り、次いで恐る恐る視線を下にずらしていく。直後、叫び声をあげそうになった口をパチッと両手で押さえ、見る見るうちに真っ赤になっていった。

 ややあって、何とも気まずそうに相手の顔を見つめ、視線がぶつかり、

誤魔化すかのように苦笑する。

やがて、つかさの口を覆っていた手が顔全体を覆ってしまってから、

淳平はそそくさとベッドから這い出した。

「・・・で?」

 嫌がるつかさをなだめ賺して、淳平とつかさの朝食の風景をすぐ横で眺めながら、

トモコがどちらともなく問いかける。

「昨日は何があったの、アンタ達?」

「へっ!?」

 トモコの発した言葉に、淳平は声をオクターブも跳ね上げた。

淳平の正面に座っていたつかさに至っては、

もうトモコの方をまともに見ることすらできなくなっているようだ。

「いや・・・昨日は、別に・・・・・ねぇ?」

 しどろもどろになりながら淳平が答えれば、

「うん・・・・・」

 つかさは、蚊の鳴く声のほうがまだうるさいのではなかろうかという声で漸く返答する。

トモコはほとんど呆れたように溜め息を吐き「あのねぇ・・・」と喋りだす。

「出かける前にあれだけ機嫌悪そうだったつかさが

帰ってきたらけろっとしてて“別に”ってことはないでしょ?」

「「はい?」」

つかさがサッと顔を挙げる。

淳平もそれまでの慌てた表情から一転、突然山道で

人に出くわしてしまったウサギの様な顔になった。

「さぁ、さぁ。このトモコさんに隠し事はイカンよ、つかさ君〜?」

 うりうりと、肘で小突かれながら、つかさはほんの一瞬ポカンとしていたが、

やがてちょっと恥ずかしそうに語りだした。

滞在初日の深夜の淳平と綾のこと。美楼祭で会った小宮山達のこと。

ケンカしたこととその原因など。

トモコは時折、話を遮らないような的確な相槌を打ちながら、つかさと淳平の話しを聞いていた。

つかさが後から気付いたことだが、トモコの情報収集能力の高さはここにあるのではないかと思った。

その相槌の入れ方の上手いこと。最後の桜の件では、ハッと気が付いたときには

ほとんど惚気話になっていた。

「ふ〜ん。・・・まぁ、実際に見てないから何とも言えないけど、

それだけ綺麗な物を二人で見ればケンカもやめるか・・・。」

 一通り聞き終わり、トモコがしみじみと独り言のように言った言葉に、

つかさと淳平はちょっと顔を見合わせた。

あれだけ話させられた後なのだから、確実にからかわれると思っていたつかさにとっては、

少し意外な反応である。

「でも、良かったよ。二人が仲直りしてくれて。」

「えっ?」

「つかさが淳平クンの話する時って、顔がすごいキラキラしてたからさ。

高校のときから思ってたんだ。幸せそうだなぁ、ってね。」

 ポツリ、ポツリと話しながら、トモコは少し照れくさそうに、

くすぐったそうに笑ったが、急に声の調子を明るく変えて、

「だけど、心配する必要なかったね!考えてみれば、つかさと淳平クンだもん!」

と、言いニッと笑った。

「ホント、羨ましいよアンタ達。」

「トモコ・・・」

 つかさも淳平も、一緒にクスリと笑みを漏らす。

二人も、何だか少し変わったくすぐったさを覚えていた。

「んで?その後は?」

「うん。暫くその桜を見てたら、また雲で月が隠れちゃって・・・」

 「雨も降ってきたから帰ってきたんだ。」と、続けようとしたつかさの言葉に、

トモコが「違う、違う。」と、カウンターパンチを入れる。

「それは帰ってくる前でしょ?アタシが聞いてるのは、“帰ってきた後”のことですよ〜?

つ・か・さ・ちゃんっ♪」

 トモコの「グシシッ」と薄気味悪く笑った顔を目の前に頬を引きつらせながら、

つかさは、直前までとガラリと考え方を変えた。

このままで済むなんて一瞬でも思った自分が馬鹿だった。

 腐っても鯛。

やはりトモコは、トモコだったのである。

「しかしなぁ・・・」

 淳平とつかさがチェックアウトした後、片づけを済ませて、

先刻のことを思い出しながらトモコが口を開く。

「ホント、あのコといると飽きないよ。」

 すぐ横にいる叔母にそういいながら、思い出し笑いをする。

「あんまり苛めないの。」

 トモコの額に軽くデコピンをしながら言う彼女こそ、

つかさが“話した”ことも“話させられた”こともしっかりと盗み聞きしていたのだから、

やはりというかトモコの叔母である。

「でも・・・」

 ふっと真面目な顔つきになり、しばし考え込む。

「あの二人、美楼祭に行って、その桜を見てきたのよね?」

「え?うん、そう言ってたけど?」

 その辺りの話も聞いているはずの叔母の口から出た問いに、

トモコはいまさら何を、と不思議に思いながらも答えた。

返事を聞いた叔母は「う〜ん」と唸り、ますます難しい顔で考え込み、言った。

「集愛神社の裏って川はあったけど、あそこに桜の木なんかあったかしら?」

 

「あれ〜?」

 トモコの叔母が頭を捻っているころ、淳平とつかさは集愛神社のすぐ近くにいた。

来た時にもさんざん迷って着いたのだから、

帰りは同じことは繰り返すまいと言い聞かせていたのも空しく、あっけなく迷子。そのまま泉坂へ向かえばいいものを、二人して「昨日の桜をもう一度」ということになり、それらしい所を見つけてはフラフラと立ち寄っていたのだった。

「確か、こんな感じのところだったよね?」

 地図で集愛神社の位置と周りの風景を見比べながら、つかさもきょろきょろと辺りを見回している。

二人が乗っている車のすぐ脇では、小さなリスが2,3匹、ちょろちょろと駆け回っては、

つかさと同じ様にきょろきょろと辺りに視線を走らせていた。

「でもなぁ、あの時は真っ暗でほとんど何も見えなかったし・・・。」

「でも、これ以上離れちゃうと歩いていける距離じゃなくなっちゃうしねぇ?」

 半ば意地になって見つけ出そうとしていたが、

それも気力体力が充実しているからこそ、そう思えていたのであり、

何よりこれ以上遅くなってしまえば、泉坂到着がいみじき時間になってしまう。

「淳平君。そろそろ行かないと・・・」

「え〜、でも・・・」

 ギリギリになっても尚、このまま帰ることに難色を示そうとした淳平だったが、

くるりと振り向いた瞬間に、口が開かなくなる。

何か言おうとしていた淳平の口を、つかさの唇が完全に塞いだ。

「ホラ、いい子だから行くぞっ!」

 半分照れ隠し、半分自棄になり、無理矢理テンションを上げるつかさ。

淳平はしばらくポカンとしていたが、やがてつかさに倣ってカラ元気を振り絞り、

漸く二人は、泉坂への道に入っていった。

 

 美楼祭は続く。

最終日の今日の日が落ちるまで、まだまだ続く。

やがて、西の空が緋色を経て紫色に変わり、一番星が姿を現すころ、

小さなリスの目には、何も無かったところにいつの間にやら現れた、

幽霊のように半透明な大きな桜の木が映っていた。