第6章『桜 時々 いちご』 - 光 様
濃紺に染まっていた東の空が、ゆっくりと、確実に白み始める。
冠雪の代わりに、たっぷりと豊かな緑を湛えた山のシルエットに接
している部分が明るさを増し、その裏の太陽の輝きを受けて神々し
く染まる雲が、細く、流れるような形で浮かんでいる。そこには、
古の文人の心を捉えた、“春のあけぼの”の風景が広がっている。
朝もやに霞むペンションの前、つかさは一人でひんやりとした空
気を顔に浴びていた。近くの木でスズメが数羽、忙しなくお喋りし
ている以外、ほとんど何も聞こえない。つかさは両手を組んで伸び
上がり、胸いっぱいに空気を吸い込み、ふぅっと脱力した。
「淳平君・・・」
無意識のうちに言葉が漏れていた。物思いに耽りながら見つめる
先には、今も淳平が幸せそうな顔を浮かべて寝ているであろう、葵
の部屋の窓がつかさをじっと見つめ返してきている。
どこからか、車の走り去る音が聞こえる。
つかさは小さく溜息を吐き、やがて、ペンションの中に戻ってい
く。
つかさが姿を消すのと入れ違いに、山影から太陽が顔を出す。降
り注ぐ朝日に照らされ、朝もやが、溶ける様に消えて行く。背丈の
高い木の枝から、三羽のスズメが、静かに飛び立っていった。
暖かな西風が、立ち並ぶ木々の間を駆け抜けていく。ごつごつし
た幹の表面を撫で、枝を揺らす。ここ、集愛神社の広い境内には、
立派に育った桜の木が、数え切れないほど立ち並び、桜の数以上の
人々の注目を集めている。一年のうちのこの時期、集愛神社の桜が
長い冬を越え、美しく咲き誇る頃、集愛神社の境内では、“美楼
祭”と言う祭りが開かれる。元々は、地元の人々が揃って行ってい
た花見が現在のような祭りに変わったのは、淳平たちが生まれるよ
りもはるか昔のことだという。地元の人々にしか知られていない祭
りのことを、淳平は角倉の事務所の先輩から聞いていたのである。
「すごいね・・・」
目の前の満開の桜に圧倒され、つかさがようやくといった感じで
言葉を絞り出す。淳平も一度写真では見ていたものの、実際に目に
してみるのとは、やはり違うらしい。つかさの横に並んで立ち、同
じ様に桜を見つめていた。
「東城さんも来れば良かったのにね。」
「まぁ、仕事が忙しいみたいだったしな。仕方ないって。」
二人が言うように、綾は今この場にいない。取材旅行中にある程
度考えておいた次回作の案を元に、担当の編集者との打ち合わせが
あるとかで、今朝淳平たちより先に、一人で泉坂に戻ったのだっ
た。
「・・・・・」
ふと、桜を見ていたつかさの目の焦点がずれる。つかさの頭の中
に、先刻の光景がゆっくりと、染み出してくる様に蘇る。
小さな、閑散とした駅のホームに、優しい風が流れる。長いこと
風雨に晒され、砂埃で薄汚れた時刻表が、数分後の電車を逃すと、
この何もないホームで延々2,3時間も待ちぼうけを食らわされる
ことを雄弁に物語っている。単線で、片側にしかホームがないそこには、古
ぼけた木製のベンチが一つ。その上で、暖かい日差しを浴び、丸く
なりながら昼寝をしていた、小さなトラかと思うような巨大な野良
猫が、車のエンジン音に飛び起きて、大慌てでどこかへ走り去って
しまう。
「じゃあ、またね。」
ほとんど無人に等しい駅の改札の前。淳平の運転していた車から
降りた綾が、にっこりと微笑む。一足先に泉坂に帰る綾を、淳平た
ちは車で近くの駅まで送りに来ていた。
「また、そのうち皆で会おうぜ。」
「東城さん、お仕事頑張ってね!」
すぐ近くに寄せた車の中から、淳平とつかさが手を振る。綾も笑
顔で車内を覗き込みながら二人に向かって手を振った。
「真中君」
窓を閉め、まさに走り出そうとした時、綾が窓越しに淳平の名前
を呼んだ。淳平がチラッと目をやると、綾は何も言わず、淳平に向
かってパチンとウィンクをした。
「あー・・・」
淳平が一瞬、困ったように目を泳がせたが、やがて、綾に向かっ
て少し恥ずかしそうに、小さく頷き返した。言葉を用いない二人の
やり取りを、つかさは助手席に納まったまま、右目の端の方だけで
見ていた。
「西野?」
淳平の顔が目の前にあった。ハッと気がついたつかさは、たった
今頭の中で溢れていたものを、何とか外に追い出そうとしていた。
「どうしたの?大丈夫?」
急に遠い目をして黙ってしまったつかさの顔を、淳平が心配そう
に表情を曇らせ、覗き込んだ。
「あ、うん、大丈夫。ごめんね」
「本当に?」
なおも聴き直してくる淳平に、つかさは「本当に大丈夫♪」と、
明るく言って見せると、一歩前に飛び出して、淳平の手首を掴ん
だ。
「ホラ。早く行って、いっぱい遊ぼう!淳平君!」
キラキラ輝くつかさの笑顔をみて、淳平は顔が火照るのを感じて
いた。つかさが引っ張るような形で、二人は祭りの喧騒の中に飛び
込んでいった。
桜吹雪の下では、様々な屋台が軒を連ねていた。食べ物を、飲み
物を、土産の品々を、さあ、見ていけ、買っていけ、と言う威勢の
良い商売文句が飛び交い、響き渡る。本当にそれが必要ならば、も
っと質の良い同じ様なものを、より安く手に入れることなど、普通
にできる。が、祭りの雰囲気が持つ魔力が購買意欲を煽り、何故か
その場で買っておかなければいけない気にさせ、財布の紐を緩めさ
せる。
「惜しかったね〜。あとちょっとだったのに・・・。」
つかさが手に持ったマスコットをぶらぶらと揺らす。魔力の誘惑
は、淳平たちにも例外なく働いていた。ついさっきまで、淳平は、
つかさにせがまれて射的にチャレンジしていたのだった。結果はと
言うと、先のつかさのセリフ通り。つかさが欲しがっていたクッシ
ョンは取ることができず、すぐ横においてあった、今つかさが持っ
ているマスコットにコルクでできた弾が見事命中してしまったのだ
った。
「ごめん、やっぱり難しくて・・・」
淳平が、つかさの手で揺れるマスコットを見ながら苦笑する。つ
かさは「ま、これはこれで可愛いけどね」と言ってニッと笑い、マ
スコットを淳平に渡した。
「東城なら、こういうの喜んだと思うけど・・・」
手にしたマスコットを見つめながら、淳平が呟く。
「・・・・・うん、そうだね。」
やや間を置いて、つかさが淋しそうに答えるが、マスコットを眺
めたままの淳平は、全く気がつく様子がない。
と、次の瞬間、スッと視線を逸らしたつかさの視界に、妙な光景
が飛び込んできた。
「ねぇ、あれなんだろう?」
肩を叩いてくるつかさの手を感じて、淳平がつかさの指差さす先
に目をやった。
そこには、小さな人だかりができていた。とは言っても、そもそ
も集愛神社自体が人ごみを抱えているので、周囲とそう大差あるわ
けではない。しかし、そこにいる人達が明らかに輪を作って、その
中心の何かを見物していた。
「何かあるのかな?」
淳平が呟いたのをきっかけに、二人がその輪の方に、興味津々で
近寄っていく。輪の中心に向かうにつれて、段々と人が密集してき
て、淳平とつかさの進路が阻まれる。やむを得ず自分の目で見るこ
とを諦め、淳平が他の人に状況を尋ねた。
「あぁ、どうもテレビが来てるらしいよ。」
人の良さそうな中年の男性が、前の人の頭越しに見えた光景を説
明してくれた。
「だってさ。どうする?」
聞いたことをつかさに伝えた淳平が、半分押しつぶされそうにな
りながら、つかさに聞いた。
「別にこんな所に来てまでねぇ。それよりもさ、今ならここに人が
集まってきてるから、他の所が空いててチャンスなんじゃない?」
淳平と同じくぎゅうぎゅうと押されながら、つかさがやっととい
う感じで口を開いた。確かにつかさの言う通り、これだけのここの
人口密度が高ければ、他の所は今が絶好の狙い目ということになる
だろう。淳平は、つかさに向かって一回頷くと、つかさの手を引い
て外に抜け出そうとした。
次の瞬間、淳平はハッとしてサッと後ろを振り返った。空耳か、
もしくは、自分の聞き違いだろうか、今確かに・・・。
「淳平君、聞こえた?」
声をかけられて見てみれば、つかさも自分と同じように、自分の
耳が信じられないという表情を浮かべていた。その時、
「ちなみちゃ〜ん、そろそろ用意して!」
今度は、間違いなかった。先刻のは、やはり聞き違いではなかっ
たことを、二人は確信した。それが何よりの証拠に、たった今名前
を呼ばれていたその女性が脇の方からひょっこりと現れたのだっ
た。
「はーい!今行きま・・・」
小さな子どもよろしく、元気に返事をした女性の目が、一点に集
中したままピタリと止まる。
「どうしたの?ちなみちゃ・・・」
淳平達から見て、反対側から出てきた大柄な男性も、彼女に右倣
えする。方や愛くるしい少女の様な顔立ち、方や不動明王の様な強
面であったが、目が点になり、口がパカッと開いてしまっている点
では、二人の顔はまったく同じだった。
「あぁー!西野さん!」
「ち、ちなみちゃん・・・!?」
女性二人が、互いを指差し、大声を上げる。
「真中!?」
「小宮山・・・何で?」
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