第5章『羅針盤MANAKA』 - 光   様



 深く、濃く、真っ白な湯気で、視界がぼやける。霞の向こう、実

際よりも遠くに感じる電灯のオレンジ色の光も手伝ってか、神秘的

な、静寂の似合う空間ができている。一瞬、夢の中にいるような気

さえしてくるが、湿気をたっぷり含んだむっ、とするような熱い空

気と、足の裏を通して感じる床のひんやりとした感触が、自分の身

体が、自分自身が間違いなくそこにいるのだと教えてくれている。

「うわぁ・・・大きいお風呂だね〜!」

「そうよね。それに、すごくきれいで・・」

 裸で、大きいタオルを一枚体に巻いただけのつかさが、風呂場に

一歩入るなり、感嘆の声をあげ、続いて同じ格好で入ってきた綾が

それに答える。何年か振りの―――幾分劇的な―――再会から数

分、つかさと綾は、二人仲良く風呂に入りながら、綾は小説の次回

作の取材旅行、つかさは帰国直後の観光という互いの近況を報告し

合っていた。

「西野さん、パティシエの修行は?」

 ボディソープで泡立てたタオルで左腕を擦りながら、綾が尋ね

る。

「とりあえず、卒業。あとは、ただひたすら自己訓練、って感じか

な。」

 髪をシャンプーで泡だらけにしたつかさがそう答えると、綾が感

心したような声を出した。

「じゃあ、腕はもう本物ってことだよね?すごいなぁ、西野さ

ん。」

「すごいのは、東城さんもでしょ?淳平君から聞いたよ。直林

賞・・・だっけ?おめでとう!・・・背中、流してあげよっか?」

 泡のついたタオルを伸ばす綾を見たつかさがそう言うと、綾は

「じゃあ、お願いしちゃおうかしら」と言いながら、つかさに背を

向けた。丁寧に綾の背中を洗い終わると、今度は交代して、綾がタ

オルを持ち、つかさの背中を流していく。

(西野さんって、肌が真っ白できれいだなぁ・・・)

 綾の右手が、徐々に速度を落としていく。綾の視線を釘付けにし

ているつかさの肌は、透き通るかのように色が白く、すべすべで、

女性の綾でも、思わず見惚れてしまうくらいきれいだった。

 どこかで、水滴の落ちる音がする。

 ふと、背中を擦られている感じのしなくなったつかさが首だけ後

ろを振り返り、放心したかのようにジッと動かない綾に声をかけ

た。

「東城さん?・・・お〜い?」

 つかさに声をかけられて、綾が、突然大きな音を聞いた仔犬のよ

うに、ピクッと反応し、「ごめんなさい」と、苦笑いを浮かべなが

ら謝り、再びタオルを持った右手を動かし始めた。

 二人とも一通り体を洗い終えたところで、湯舟の方へと向かっ

た。この風呂場中を覆いつくしている湯気の発生源であるそこに、

ゆっくりと爪先を入れていき、やがて肩まで湯に浸かると、どちら

からともなく、ふうっ、と息がもれる。やや温度が高めのその湯

は、どうやら天然の温泉であるらしい。自宅で入るそれとは、成分

が異なるらしく、温泉独特の、あのピリピリとした感触が腕や背中

に感じられた。

「う〜ん・・・」

 湯船に浸かるなり、何を思ったのか、つかさが綾のことを観察す

るかのように、しげしげと眺め始めた。

「どうしたの、西野さん?」

 つかさの視線に気付いた綾が、キョトンとした表情を浮かべ、小

首をかしげて聞くと、つかさが独り言のように呟いた。

「いいなぁ〜、東城さん・・・胸、大きくて・・・」

「え゛っ!?」

 何でもない顔をして大胆な発言をするつかさの視線が今になって

恥ずかしくなってきたらしく、綾は水面をザバッと波立たせて、慌

てて両腕で自らの胸元を隠した。そんな綾にお構い無しに、つかさ

が続ける。

「いいなぁ〜・・・東城さんって、ホントにスタイル良いよねぇ」

「な、何言って・・・、西野さんこそ、スタイル良いと思うわ!」

「ううん、全然!アタシなんか、ホント、貧相だし・・・」

「でっ、で、でも・・・!」

 恥ずかしさのあまり、舌が上手く回らなくなってしまった綾が言

う。

「西野さんの方が、細くてスッキリしてて、肌なんかもすべすべし

てて私よりすごく綺麗だと思うけど・・・」

「でもアタシ、胸小さいし、東城さんと違って、出るとこ出てない

し、ホント、胸小さいし・・・」

 余程自分の胸にコンプレックスがあるらしい。言っている内容が

ほとんど同じ事を繰り返しているだけだということに、言った本人

が気付いていないようだった。

「う〜・・・ちょっと、触らせて!」

「えっ!?ちょ、ちょっと、西野さ・・!」

 言うが早いか、綾の答えも待たずにつかさが綾の胸に手を伸ば

し、ほぐす様に触っていく。

「うわ〜、軟らか〜い!」

「ちょっと・・・や、やめて!西野・・・さ・・・ぁんっ!!」

 つかさの手を上手くかわせずにいながら、綾が艶っぽい声を出し

た。





































 そのころ、
















「・・・」

 男湯では、淳平が一人ポツンと湯船に浸かっていた。が、どうも

様子がおかしい。普段よりもやや猫背気味、前屈みで、微動だにし

ていない。その理由は、

(聞こえてるんですけど・・・)

 ぷいっと、音源に対して背を向ける。聞こえている、と言うの

は、つかさと綾、二人のはしゃいでいる声のこと。ここの風呂は、

男湯と女湯が分厚い壁で仕切られている。それだけならば何の問題

もないのだが、実は、先程から男湯と女湯の両方の換気用の窓が、

ほんの少し開いているのだった。そんな訳で、先程からのつかさと

綾のやり取りは、風に乗って男湯へ。最初こそ、得をした気分で聞

いていた淳平も、徐々に耐えるのが大変になってきている。窓を閉

めようとも考えたが、ひどく錆付いているらしい蝶番の部分が、少

し動かしただけでキーキーと耳障りな音を立て、それが女湯の方ま

で聞こえてしまいそうで、なかなか閉められずにいたのだった。

 もう我慢ならない、とばかりにザバッと立ち上がると、淳平はい

そいそと風呂場から出て、脱衣所へと向かった。


小さく開けた窓を、夜風が潜り抜けた。風呂場の前の壁に寄りかか

っていた淳平が、大きく身震いをする。もうすっかり春とは言えど

も、風の中には“冷たさ”が形を潜めている。熱を帯びた肌の表層

を冷やす夜風が運んできた祭囃子を聞きながら、淳平が窓の外に目

をやる。上り始めの望月が、東の空の低い位置に浮かんでいた。

「お待たせ、淳平君!」

「ごめんなさい、遅くなって」

 女湯の脱衣所から出てきたつかさと綾の声に、淳平はくるりと振

り向き、直後に絶句する。「もう、10年経った」「出てくる気な

いのかと思った」二人が出てきたら言おうと思い、喉の所に用意し

ていた軽口や冗談が、言葉になる前に雲雨霧消する。視線が、二人

の濡れたつややかな髪に、潤んだ瞳に、ほんのりと上気した頬に吸

い寄せられる。

「・・・?真中君、どうしたの?」

 綾の言葉に、淳平がふっと現実に帰り、やがて赤面する。ぽかん

と口を半開きにしたまま、放心したように見惚れている自分がいか

に異様か、どれだけ間が抜けて見えるかを察知し、恥ずかしくなっ

たのだった。

 暴れる心臓をなんとかなだめ賺し、落ち着かせると、風呂でのぼ

せたのではないかと心配する二人を連れて、淳平は夕食のために食

堂へと向かった。

 夕食は、最高だった。前菜に始まりメインディッシュまで、旬の

食材をふんだんに使ったトモコの叔母の料理は、つかさの舌をも相

当に驚かせるものだった。贅の限りを尽くした料理と三人の思い出

話で、腹と心が温かく満たされていった。

「はい。こちら、デザートのケーキになりま〜す。」

 明るい声を出しながら、厨房の方からトモコが出てくる。宿泊客

3人のうちの2人が知り合いで、残った一人もその友達だというこ

とで、かなり砕けた雰囲気で仕事をしていた。彼女の叔母も、最初

に「他のお客様の前では絶対やめてよ?」と軽く注意しただけで、

微笑みながら見ているだけだった。

「どう、つかさ?アタシの自信作は?」

 トモコが少し胸を張るようにして言う。どこか楽しそうにも見え

るトモコに、しっかりと味を見ていたつかさが口を開いた。

「う〜ん、ちょっと酸っぱいかな。レモン使ってるでしょ?甘さが

足りないせいでレモンの味が前に出すぎちゃってるんだよね。」

 でも結構おいしいと思うよ、とつかさが述べた感想を聞くと、ト

モコは「やっぱりか」と言い、苦笑し、「でもなぁ」と、何やらブ

ツブツと呟き始めた。

「甘くしすぎると効果薄いって言うし・・」

「効果?」

 この場の状況にそぐわない単語に、コーヒーカップを口元に運ん

でいる淳平が反応する。

「つかさのケーキにだけ“ちょっと”危ない薬が入ってるのよ。

“今夜のためにね”♪」

 心底楽しそうな笑顔と共に発せられた爆弾発言に、三者三様の反

応が返ってくる。綾はフォークを取り落としたまま固まってしま

い、淳平が、口に含んだコーヒーを水鉄砲のごとき勢いでカップの

中に噴き返した。

「ちょっ!・・・ケホッ・・トモコっ・・・なっ・・・!?」

 呑み込みかけのケーキが喉につかえたらしいつかさが、苦しそう

に顔をゆがめ、激しく噎せる。

 しかし、

「嘘だってば、嘘!いくらあたしでも、そんなことまではしないっ

てばぁ!」

 今にも噛み付かんばかりの形相で迫ってくるつかさを見て、トモ

コが腹を抱えて笑い出す。それこそ、これ以上面白いことがこの世

に存在しようかと言わんばかりに大笑いし、目には涙すら浮かべて

いる。

「で、でも・・・」

 笑い事じゃないでしょ、と叫ぶつかさに、まだ笑い足りないらし

いトモコが、ひーひー言いながら言った。

「彼氏とラブラブなつかさちゃんなら、そんな物無くても・・・ね

ぇ♪?・・わかった、わかった!ゴメンってば!」

 なおも意地悪くニヤつくトモコに、つかさは隣の椅子のクッショ

ンを振りかざしていた。


 二人のいる葵の部屋は、静まり返っていた。と言っても、恋人同

士の放つ甘いそれではない。重く、気まずく、澱んだ沈黙。先刻の

トモコの発言のせいで、互いに意識しすぎてしまっているのだっ

た。

 そりゃ、そうだよなぁ、と、淳平が心の中でそっと呟く。

(あの時言ってたのって、要するに、“アレ”のことだろ・・・)

 考えているうちに、勝手な妄想の中に引きずり込まれそうになる

が、暴走直前、淳平はぶるっと頭を振り、妄想を叩き出した。



























「ねぇ、淳平君・・・」
































 何の前置きも無しに、つかさがポツリと言葉を発する。不意を突

かれた淳平が、電撃を受けたようにビクッと反応し、ピンと背筋を

伸ばした状態で固まった。

「え・・・あー・・・・何?」

 何とか取り乱さないように頑張ってみたが、何か喋ろうにも舌が

上手く回らず、心臓は普段の倍近い早さで脈打ってしまっている。

だが、そんな淳平を全く気にする様子もなく、つかさが続ける。

「アタシと淳平君って、付き合って、長いよね?」

「あ・・・う、うん。高1の冬に別れて、高3の九月にまた付き合

い始めて・・・」




























「た、多分さ!」

 思い出そうとすることで、やや冷静になりつつあった淳平の言葉

をつかさが遮った。
















































「えっと・・・トモコが変なこと言ってたけど・・・その、よく

わかんないけど・・・普通のカップルだったら・・・もう、そ、

“そーゆーこと”しても、良い頃だよね?」

















































 世界から音が消えた。見えない誰かが、スピーカーのつまみをゼ

ロにしたような、音と言う音が、全て喰らい尽くされてしまったか

のような。






































「でも・・・」

「アタシは、淳平君さえ良ければ、って思ってるよ・・・」

 またもや、淳平の言葉の出鼻をくじく。怖がってるんだ、と淳平

は思った。つかさのことは好きだった。これ以上ない位に大好きだ

った。が、大きな、なんとも形容しがたい恐怖が、淳平を取り込

み、押し潰そうと膨れ上がっている。しかし・・・、









































 気が付けば、つかさの肩をしっかりと捕まえ、逸らしていた顔を

自分の方に向けさせていた。淳平の顔を直視してしまい、つかさが

火を噴きそうなほど赤面するが、目は逸らせることができなかっ

た。淳平の真剣な目と、見えない糸で繋がり、どちらからともなく

顔を寄せ、瞼を伏せる。あと5センチ―――キスだけならしたこと

あるはずなのにな―――あと4センチ―――俺、西野を満足させら

れるのかな―――あと3センチ―――西野も、緊張してるんだろう

なぁ―――あと1センチ―――こういう時くらい、つかさって呼ん

だ方がいいよな―――











































 二人の身体が、そっと触れ合う。淳平が驚いて、パチッと眼を開

くと、もたれかかり、額を淳平の肩に乗せたつかさが視界に飛び込

んできた。



































「西野・・・?」

 恐る恐るといった感じで、淳平が声をかける。すると、つかさか

ら予想を超えた返事が返ってきた。

「ぅん・・・淳平くぅん・・」

 瞬間的に鈍っていた淳平の判断力が、つかさのたてる小さな寝言

で元に戻った。

(そりゃ、疲れてるよな。フランスから戻ってきて、そのまま休ま

ずにこっちに来て・・・)

 ふっ、と静かな笑みを漏らす。そのままつかさの華奢な身体をそ

っと横抱きにし、ちゃんとベッドの上に寝かせて、掛け布団を掛け

てやった。

「お疲れ様・・・お休み、西・・・つかさ」

 静かに声をかけ、そっと微笑むと、淳平もつかさを起こさぬよう

注意を払いながら、自分の寝支度を済ませた。

(普通がどうだか知らないけど、俺たちは、俺たちだよな、西野。)

 二人の旅の夜が、どこまでも甘く、更けて行く。






 夢の中でも、つかさはふかふかな何かの上で眠っていた。幸せそ

うな表情で、時折寝返りを打ちながら。

「つかさ。」

 すぐ隣で、同じ様に横になっている淳平が囁きかけてくる。彼の

手には、一本の猫じゃらしが握られている。ふと、淳平の顔が、悪

戯っ子のそれになり、持っていた猫じゃらしをつかさの顔の前で振

り始めた。

「ふふっ・・・淳平君、くすぐったいよ♪」

 つかさが首をすくめてくすくすと笑う。それでも止まる気配のな

い淳平の攻撃をかわそうと、大きく身じろいだ。


























「ん・・・?んん・・・?」

 身体を捩った衝撃で目を覚ます。まだ寝ぼけて、半分夢から戻っ

てきていない状態で、むくっと上体を起こし、暗闇に視線を走らせ

た。

「んぅ?淳平君・・・?」

 開ききらない目で、辺りを見回すが、名前を呼んだ人物が見当た

らない。掛け布団のめくれた隣のベッドを見たところ、どうやら一

度は床に就いたらしい。トイレかな、とつかさは思った。

(そう言えばトモコが、この階の反対側にもあるって言ってたよ

ね・・・)

 僅かに催したつかさが、そっとベッドを抜け、未だ覚醒しきって

いない状態で扉の方へと向かった。と、


























「あれ?」









































 よく見てみれば、入り口のすぐ横にあるトイレには、明かりが点

いていなかった。しかし、つかさが変に思ったのは、それとは別の

ことだった。









































(誰か、いる?)

 廊下で僅かに話し声が聞こえたような気がして、そっと耳を傾け

ると、

「・・・だから、そうして?」

 今度ははっきりと聞こえた。声を落としているようだが、間違い

なく綾が、外で誰かと話している。




































(淳平・・・君?)

 微かに聞こえたもう一人の声は、つかさが聞き間違えるはずはな

い、まごう事なき淳平の声。

 つかさは、そっと戸を開け、様子を見てみた。よくはわからない

が、何となく、気配を殺さなければならないような感じがつかさ

を占領する。





































「あ・・・でも」

「ね・・・お願い。」

 目が慣れてきたのか、戸の隙間から二人の顔がよく見えた。つか

さは、食い入るように見つめていた。綾の何かを懇願するような表

情を。淳平の照れた顔を。

 やがて淳平が恥ずかしそうに微笑み、口を開いた。





































「うん・・・解った」

「ふふっ、良かった・・・」

 綾が嬉しそうに、ホッとしたように笑顔になる。花が咲きそう

な、天使の笑顔。

 数十秒後に淳平が部屋に戻ってきた時、つかさは淳平の記憶にあ

った通りの姿勢でベッドの中にいた。

「西野・・・寝てるのか?」

 淳平がそっと声を掛け、つかさが眠っていること確認すると、淳

平も再び床に就いた。































 つかさは、眠っていた。目をしっかりと開け、今聞いた会話を頭

の中で反芻しながら。

(ダメ・・・疑っちゃダメ!)

 心の中で、強く、呪文のように唱える。

(あの淳平君だもん・・・大丈夫。・・・ちゃんと、淳平君を信じ

て!)

 何度も寝返りを打ち、その度に強く、自分に言い聞かせる。やが

てつかさは眠りに落ちるだろう。しかし、翌朝目覚めるまで、つか

さの眠りが深さを増すことは、とうとうなかった。



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