regret-8 takaci様

「佐伯くん、資料室からこの判例の資料を探してきてくれ」





「わかりました」





秀一郎は席を立ち、隣の部屋に向かった。





「えーっと、横浜地裁の・・・」





膨大な過去の判例から、目的の資料を探し出す。





難しくはないが、手間がかかる仕事に秀一郎は真剣な眼差しで取り組んでいた。










秀一郎はこの小さな弁護士事務所でバイトをしていた。





主な仕事は資料探しや作成、それに雑務一般。





「はい峰岸さん、資料ってこれでいいですか?」





「ああ、ありがとう」





この弁護士事務所の所長、峰岸が笑顔で資料を受け取った。





峰岸は現在38歳。企業が抱える顧客とのトラブル対応をメインの業務にしている。





「先生」とか「所長」といった肩書で呼ばれるのを嫌っており、だから秀一郎も普通に「峰岸さん」と呼んでいる。





あと他に女性の助手が1名おり、3人でこの事務所の全ての仕事をこなしている。





「佐伯くんが優秀でよかったわ。高校生のアルバイトって正直少し不安だったけど、今は本当に助かってるわ」





そう話すのは助手の田嶋だった。





年齢は所長の峰岸より上で、ここの母親的な存在である。





秀一郎がここの前を通り掛かったとき、偶然田嶋が「アルバイト募集」の貼り紙を貼ろうとしているところだった。





将来弁護士を目指す秀一郎にとっては絶好のチャンスであり、すぐに面接した。





峰岸は当初、大学生か弁護士のタマゴを考えていたので高校生の秀一郎を雇うのに少し抵抗を感じていたものの、秀一郎の熱意に推されて採用に踏み切り、今では雑務全般を任せるようになっていた。





ここでの仕事は学校の授業より難しく、頭を使うことも多いが、大きなやり甲斐を感じている秀一郎だった。





バイトは学校が終わってから夜7時までが基本で土日は休みだが、仕事が多い時、特に重要な公判前は忙しく、深夜になったり休日出勤もある。





ただバイト料は普通の高校生の相場よりはかなり良く、それを知っている奈緒が秀一郎にいろいろタカる要因にもなっている。












ブーッ・・・





マナーモードになっている携帯が震えた。





「ん?」





秀一郎は峰岸に資料を渡すと、携帯を開いた。





「・・・全く、相変わらずわけがわからん・・・」





奈緒からの写メだった。





「なに、彼女から?」





田嶋が興味深そうに覗き込んできた。





「こいつ頻繁に写メ送ってくるんですけど、何なのかよくわからないものばっかなんです。どう返していいやらいっつも困ってて」





「別に深く考えなくていいのよ。ただ相槌打つだけで十分よ」





「そんなんでいいんですか?」





「あれくらいの年頃の子は、ただ好きな人といろんな感動を分かち合いたいだけなのよ。気の利いた言葉なんて要らないわ。ささ早く返信してあげなさい」





「えっ、でもまだバイト中ですし・・・」





一般論を口にしようとした秀一郎に、





「佐伯くん、若いうちはそんな細かい事は気にしないで、彼女を第一に考えたほうがいいぞ」





所長の峰岸までそう言い出した。





「いやでも・・・」





「男なら、たまには仕事を放り出して大切な人のために時間を割くことも必要だ。それに佐伯くんの彼女は今時珍しいとても素直で気が利くいい子だ。本当に大事にしなきゃダメだよ」





奈緒は姉の真緒とふたりでこの事務所に来たことがあった。





ただ秀一郎が働いている場所を知りたかっただけで、差し入れにわざわざ手製のクッキーまで持ってきた。





その効果は絶大で、峰岸も田嶋も奈緒にとても好印象を抱いていた。





(奈緒って外ヅラはホントいいんだよなあ。内面は今時のワガママ女なんだけどなあ・・・)





ふたりの笑みを見ながら、女の子の二面性を感じる秀一郎だった。











「お先に失礼します」





バイトを終え、職場をあとにした。





小さなオフィスビルの一角にあるこの事務所の出入りは、小さなエレベーターを主に使う。





扉の前でエレベーターが降りてくるのをいつものように待つ。





ランプが自分の立つフロアに着いたことを示し、静かに扉が開くと、スーツ姿の先客が目に入った。





小さなビルだが人の出入りはそれなりにあり、こうして狭い空間を共有するのも日常のひとつである。





秀一郎はいつも通りエレベーターに乗り、扉が閉まった。





しばしの時、見知らぬ人物と移動を共にする、いつもの日常・・・





「あれ、君は確か・・・」





先客が話しかけてきた。





「あ、あなたは・・・」





秀一郎にも見覚えのある顔。





自分と正弘の先輩にあたり、映像研究部のOBの優しい笑顔だった。











偶然にも帰る方角が同じだったので、しばらく並んで歩きながら話す機会が生まれた。





「はい、俺の名刺」





[株式会社レアルトレーディング 外商課 真中淳平]





そう記されていた。





「トレーディングってことは、貿易会社ですか?」





「フィリピンで造ってる家電製品の輸入と販売が仕事だよ。以前海外をひとり旅してて英語はわかるんだ。俺の数少ない取り柄のひとつだな。まあ今時英語なんてたいした取り柄でもないけどね」





「そんなことないですよ。若狭も俺も英語わかんないですから、やっぱ凄いと思います」





「君たちはまだ若いじゃないか。若狭くんも、えっと・・・」





「佐伯です。佐伯秀一郎と言います」





「秀一郎か。立派ないい名前じゃないか」





「たまにそう言われます。でも俺としては名前負けしてる気がして嫌なんすけどね」





「そんな事はないよ。佐伯くんはあのフロアにある弁護士事務所で働いてるんだろ。高校生でそんな場所で仕事が出来るのは凄いよ。俺なんて寂れた映画館だったからな。しかも無給だったし」





この淳平の言葉で、秀一郎は正弘が言っていた言葉を思い出した。





「そういえば前に若狭が言ってました。真中先輩の映像の技術は凄いって。あいつは先輩をプロだと思ってるみたいですよ」





「そうなの?そりゃまずいなあ・・・」





淳平はボリボリと頭を掻きながらバツの悪い表情を出す。





「映研を立ち上げて、自主制作映画撮ったんですよね?」





「ああ。真剣にプロの道を目指して、少しの間だけどプロとして仕事もしてた。けど、辞めたんだ」





どこか遠い日を見るような淳平の表情は、やけに晴れやかに見えた。





「どうして辞めたんですか?」





「俺は映画が大好きだ。観るのも好きだし、自分で作るのも好きだ。けどそれを仕事として、プロとしてやって行くとなると好きだけではダメなんだ。好きが故に理想を求めて、けど現実には無理で、それが嫌になって・・・ってのを繰り返してたら、映画が嫌いになってたんだ。まあ学生の君にはまだ理解出来ないかもしれないけどね」





「いえ、なんとなくわかります。好きなことを仕事にすると辛くなるってよく聞きます」





と秀一郎は口にしたものの、いまいち納得出来なかった。





「佐伯くん、君には夢があるかい?あそこでバイトしてるってことは、弁護士志望なのかな」





「あ、はい。実はもの作りが好きなんですけど・・・」





秀一郎は淳平に弁護士を目指すきっかけと経緯を話した。





淳平はその話を優しい笑顔で耳を傾け、





「そうか。大変だと思うけど、頑張れよ!」





軽く肩を叩き、エールを送った。





「はい、頑張ります。けど真中先輩」





「ん、なんだい?」





「もう一度、映画の世界に戻る気はもうないんですか?若狭が言ってました。真中先輩はホント凄いって。そんな凄い力があるなら、勿体なくないですか?」





まだ若い秀一郎には、今の淳平は夢を諦めたように見えていた。





そしてその決断はまだ淳平には早過ぎるように思え、そう伝えた。





それを受けた淳平は顔色を変えることなく、いつもの優しい笑顔のままで、





「君は天才という人物に会ったことがあるかい?」





と尋ねてきた。





「天才、ですか?俺は、たぶんまだないと思います」





「天才と呼ばれる人は本当に凄い。その世界に疎くても、理屈抜きに凄さが伝わってくるんだ」





淳平は熱が入った言葉を伝えてくる。





「は、はあ・・・」





「あと同じように努力家も凄い。天賦の才能がなくても、日々の努力の積み重ねで凡人には到達出来ない世界を生み出す。天才も努力家も同じように素晴らしい」





ここで淳平は少し寂しげな表情を見せ、





「でもその世界は凡人は到達出来ない。努力ってのは続けるのが大切だけど、それを続けれる環境が必要なんだ。そしてその環境ってのは簡単に手に入らない」





「努力のための環境、ですか」





秀一郎には初めて聞く言葉だった。





「ま、それは言い訳にしかならないけど、けど俺には才能もなかったし努力も出来なかった。だからハンパなものしか出来なかった。プロと名乗ってんのに満足な作品が出来ない。傍目には良さそうに見えても、作った本人が不満ならダメだ。俺はプロと名乗るだけのものは持てない。だからもうあの世界に戻る気はないよ」





「そう、ですか」





その淳平の言葉から秀一郎は現実の厳しさを垣間見たように感じた。





「あ、でも、今は楽しいよ。趣味として映画と付き合うようになったら、また好きになった。いち観客として映画観て、出来る限りのことでショートムービー作って、後輩と映画の話をする。そんな毎日がとても充実してるな」





秀一郎の暗い顔に気付いた淳平が明るく振る舞う。





その言葉も偽りではないとわかるものの、やはり今の淳平から一抹の寂しさを感じとる秀一郎だった。





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