〜君に贈る〜第十六話 - つね 様
〜君に贈る〜第十六話「記憶の欠片。そして灯台の街へと」
「それじゃあ行ってきます」
これは何度目の行ってきますだろうか。
「行ってきます」、このありふれた言葉が特別な意味を持つことはその使用回数と比べてあまりに少ない。
「行ってらっしゃい」
母さんと唯の笑顔に見送られて、俺はまた泉坂を出る。
この数日間、ここで掴んだ手掛かりといえば無いに等しい。
ただ決心はついた。たくさんの勇気をもらった。
迷いは無くなっていた。
西野と一緒に未来を掴む。
おおげさに思えるかもしれないけど、それは紛れも無い俺の本心だった。
そしてそのスタートラインが、蛍崎にある。
そう…青の海…
…伝説が、近づいていた…
西野を迎えに行くとちょうど外出しているということで、「家にあがって待ってたら?」という西野のお母さんの言葉に甘え、俺は西野の部屋で帰りを待つこととなった。
俺は少し不思議に思っていた。
俺が知るかぎり、西野は約束の時間に遅れたことはなかった。
今日の約束も決して急なものでは無い。
前日にもおおよその出発の時間を電話で確認していた。
待たされる、というなれないシチュエーションに少し戸惑いを感じてもいたが、紅茶を運んできた西野のお母さんによって少し気持ちが落ち着いた。
「今日、また出発するのね…」
「あ、はい…」
俺がそう答えると西野のお母さんは「そう」と一言呟いた。
紅茶の入ったカップを丁寧に俺の前に置く西野のお母さんは微笑んでいるような、寂しそうな、どちらともつかない、微妙な表情をしている。
その表情の裏にはきっとたくさんの思いが今まさに巡っているのだろう。
それは果たして西野の現状のことだろうか、それとも西野の…もしくは俺と西野の将来のことなのだろうか…
きっとどちらもハズレではないだろうと思った。
その二つが切っても切り離せないものだということは、十分に分かっていたから。
カップにスプーン、砂糖にお茶菓子。
そのすべてを置き終えると西野のお母さんは西野によく似た表情の後、こう言った。
「淳平くん、つかさを…よろしくね」
この言葉も何度も聞いた気がする。
そして西野の肉親からのそれは今までとは少し違った重みを感じさせた。
西野は約束の時間より一時間も遅れて帰って来た。
ドアが開いて、西野のお母さんが出迎える。
その瞬間一旦足音が止まり、そして途端に駆け出す音が聞こえ始める。
そう、まるで俺との約束のことをたった今思い出したかのように…
そんなに経たないうちに西野は騒がしく部屋のドアを開けた。
熱い呼吸は荒く、それに合わせて肩が上下している。
それだけで家までそれなりの距離を走って来たことが分かる。
西野はビックリしたような顔で俺を見て、それから申し訳なさそうに下を向いた。
「あ…、その…、ごめん…」
…少し、嫌な予感がしていた…
そして音の無い二人の空間に西野の弾む息だけが繰り返す。
「えっと!」
しばらくしてから西野が勢いよく切り出した。
「…その…忘れてたわけじゃなくて…、その…だから………」
どんどん弱くなる声でそう言いながら西野は上げた視線をまた落とした。
今にも泣きそうな声にようやくはっとして、俺は西野に歩み寄り俯いた頭に手を乗せた。
上がった体温が直接手に伝わり、ほのかな汗を手に感じる。
「いいよ。無事でよかった。ただ、心配だったんだ」
「ごめん…、ごめんね」
俺は力の抜けていく西野の身体を優しく抱きしめた。
そして一時のあの沈黙が西野を不安にさせてしまったことを後悔していた。
でも怒ってたわけじゃなくて
呆れてたわけでもなくて
見捨てたわけでもなくて
でも、それでも、この時、西野はいつもと違っていて…
そのことが俺の言葉を奪ってしまったことは間違いなかった。
「ありがと。もういいよ。大丈夫」
そんな西野の呟きに俺は身体を離した。
まだ涙の跡の残る西野の表情を見ると少し心配にもなるのだけれど…
「それで…何かあったの?」
そう尋ねると西野はまたはっとして、焦るように話し始めた。
「そう!思い出したの!あたし…、あたしケーキ作ってた」
「今まで、向こうでも、泉坂に帰ってからも、たくさんの人達にケーキのこと言われても全然ピンと来なかった。でも、思い出したの!あたし、確かにケーキを作ってた」
それを聞いた瞬間、自ずと笑顔が浮かび、心からの言葉が口をついて出た。
「西野、思い出したんだ!よかった…」
「あ…、う、うん」
歯切れの悪い西野の返事が少し気にかかった。
考えるより先に飛び出した俺の言葉が気に障ったかと少し不安になった。
「どうかした?」
「…ううん、何でもないよ」
後ろ手を組んで腰を折るようにして見せたその笑顔。
俺は安心して微笑んだ。
カタンカタン…と軽快な音を立てながら心地よい揺れとともに電車は走る。
目の前では泉坂へと帰ったあの日と同じように西野が眠っている。
俺を『眠らせない』西野はまだ帰ってきていなかった。
きっと様々な気疲れがあるんだろう。
西野はまだ完全に記憶を取り戻していなかった。
『蛍崎』のことはどうだろうか。
窓の外に目を向ければ見える輝く灯台を眺めながら少し心配に思う。
そろそろ駅に着く。
もう辺りは真っ暗だった。
俺は気持ち良さそうに眠る西野の肩を揺する。
すると彼女は目を擦りながら寝起きによくある、声にならない声を出した。
「…んん、あれ?もう着いたの?」
「うん、降りよう。はい、荷物」
「ありがと。あたしずっと寝ちゃってたんだね。ごめんね。退屈じゃなかった?」
「いや、いいよ。いろいろあって疲れてるだろ?」
何気ないいつもの会話。
記憶を無くしても西野は西野だった。
こっちへ戻ってくると最初から決めていたため、少ない荷物で改札もくぐりやすい。
そのまま駅を出ると一目惚れしたその風景が、街が、また俺達を迎えてくれた。
「あ、ほら、お父さん!あそこ、真中さんと西野さん!」
少しの間その景色に見とれていたが、その声に呼ばれ、振り向くと渚ちゃんと西崎さんがいた。
渚ちゃんは西野さんを急かすように引っ張って俺達の目の前へとやってきて微笑んだ。
「二人ともおかえりなさい」
温かいその言葉は、まるでこの場所にずっと昔から住んでいるような、そんな気にさせてくれた。
西野もそんな風に感じているだろうか、そう思い振り返るとちょうど目が合って互いに微笑んだ。
そして二人で一緒に頭を下げる。
「ただ今帰りました」
それから俺たちは西崎親子と一緒に時子さんの家まで歩いた。
久しぶりの蛍崎。
波の音、涼しげな風、潮の匂いが包み込む。
時子さんはいつものように温かな笑顔で迎えてくれた。
今日は5人分の料理をこしらえて。
何の記念日でもないのに、
俺たちが帰ってくる時に合わせてこうして食事会を開いてくれるこ
とが、本当にありがたかった。
俺は、俺たちは、蛍崎(ここ)にいてもいいんだと安心させてくれた。
心からの、その優しさが嬉しかった。
決して盛大ではない、でもささやかでも温かな食事の後、俺は久しぶりに西野とこうして布団を並べて床に就いた。
月明かりが照らす静かな部屋でどちらからともなく寄り添い、手を繋いだ。
「ねぇ…」
西野がささやく。
「あたし、ショックとか、そういうので気持ちが沈んじゃってて、泉坂に帰るまではこの街のことなんて、知ろうとする余裕もなかった。
ううん、知ろうとしなかったの。周りのもの、わけが分からなくて全部拒んでた」
「だけど、今日思ったの。いい街だなって。まだ思い出せないし、分からないことばかりだけど…覚えていけばいいよね、
一つずつ、一つずつ…さ」
なんて優しい声で話すんだと思った。
久しぶりに聞いた「その声」は、やっぱり俺を柔らかな気持ちにさせた。
「それでいいさ。一つずつ、一緒に覚えていこう」
「ありがとう。一緒に…頑張ろうね…」
西野はそう言いながら自分の頭をそっと俺の胸に当てた。
「うん。ゆっくりでいいよ。頑張ろう」
俺は目を閉じて微笑みながらそうささやく。
寝間着を通じて伝わる西野の温もりは俺の胸につかえた何かをすうっと溶かしてくれた。
俺は思う。
西野…きみが、俺の隣にいてくれて、本当によかった。
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