『真実の瞳』−22.「岐点」 - スタンダード 様
室内から淳平の話し声がする。
電話だ。
相手はどうやら映画に関する人間らしかった。
「はい・・・はい・・・
それとリーレコ全部やり直します。
結構時間も余ったし…
え?
ああ、それはタイミングマンとのスケジュールが合わなくて…」
と相づちを打ちながらも、相手に的確な指示を与えるその威厳に満ちた声は、さながらベテラン映画監督のようであった。
専門用語を使う淳平に、部屋の外で唯が密かに感心している。
確かに今まで監督らしい淳平の姿というものは見たことがない。
それゆえに、いつもとのギャップが大きく妙に感動してしまったのである。
長々とした電話をやっと終えて、淳平が部屋から出てきた。
先程から位置を変えず唯がそこに立っている。
「じゅんぺいってもしかしてすごい人?」
恐る恐る尋ねるその姿がおかしくて笑いそうになるが、それを抑えて答える。
「いやいや映画監督で食ってこうって考えてる人はみんなこれぐらい知ってるって」
それは謙遜というものではなく、確かに映画監督を職業としているものは皆知っていて当然のことだ。
「もう何年もやってるわけだしさ。
さすがにこれぐらいのことは俺にも出来るよ」
淳平がそう言うことで、唯は改めて目の前の幼なじみが映画監督となった事実に気付いた。
「そっか・・・もう5年になるもんね・・・よく続けたよ。偉い!」
淳平の背中をバンバンと音を立てて叩いた。
手洗い賞賛に照れながらも、まあな、とだけ強がってみた。
「どうだった?
あこがれの映画監督としての5年間は。」
「そうだなぁ・・・
予想通りでもあったし全く予想つかなかったこともあるし・・・
でもまあ、思ってたとおり楽しいよ。」
それは自信を持って言える。
映画監督になったから、今の自分がある。
それはもちろん、身分だとかっという問題ではなく、内面的な、人間性のことである。
その変化がいいか悪いかは一概に言えることではないかもしれない。
だが、淳平自身、かくあるべきだったと思っている。
「そっか・・・
あたしなんてさ〜サークルもろくに続けられないんだよ?
なんか原動力みたいなのがないんだよね・・・」
唯はつかさに憧れて、という気持ちもあってか、料理のサークルに入ってみた。
親しい友人も誘ってのことであったが、今はもう唯はやめてしまい、友人のみが続けているのである。
その後、いくつかのサークルも回ってみたのではあるが、どうもしっくり来ず、結局ただいま無所属の身である。
「辛かったりしてやめたくなることとかなかったの?」
そう尋ねられて淳平は一瞬答えに詰まったが、
「逆だよ」と一言。
「逆?」
「そう。辛いからやめたくなるんじゃなくて、辛いから映画のことを考えてた。
映画がなかったら乗り切れないこともあったと思うし。
俺にしてみれば映画自体が原動力なんだよ。きっと。」
ふ〜ん、と羨ましそうな目で淳平を眺める唯。
夢中になってみたいなと思う。
いや、今が『夢中になれるものを探すこと』に夢中になっているのかもしれない。
自分が夢中になっているということには意外に気付きにくいもので、人から言われてそうなのかなと思うのもよくある話だ。
「じゃあちょっと行ってくるわ」
「え?」
「いや・・・今日さ、ほら・・・」
「ああそうか。行ってらっさい。」
淳平は家を出てつかさの家に向かった。
淳平の夢中になっているものは、もちろん映画だけでなく、西野つかさその人でもある。
それに彼が気付いてるかどうかは、測りかねるところであろう。
「もしもし?」
今度電話をかけるのは外村である。
「ああ真中か。もう出たか?」
「おう。今ちょうど家出たとこだよ。」
「じゃああと10分もかからないか?」
「あ、でもケーキ取りに行かなくちゃいけないからな。」
「分かった。じゃあ20分後につかさちゃんのマンションの正面な」
「OK」
手短に用件を話して会話を終えた。
西野つかさとケーキ。
いつの間にか廃れていった彼女とそれの関係。
以前は毎日触れ合っていたはずのものなのに、まるでケンカでもしたかのようにお互い見向きもしない。
それでも、やはりこのままでいられないと感じたのか、アプローチを仕掛けたのはケーキの方だった。
人間、縁は切っても切れないものである。
ケーキだって、一年に一度は近づいてくるということだ。
そう、今日は9月16日。
西野つかさの、誕生日。
正直なところ、淳平は迷っていた。
つかさの誕生日を祝うことをではない。
例えさけられていても、誕生日を祝うことに文句を言われることはないだろう。
迷っていたのは、ケーキを持って行くことについてである。
日暮との離別から、つかさの心には、洋菓子に対するある種のトラウマというべきものがある。
それこそが未だ彼女が過去を吹っ切ることの出来ない理由の一つであるのだ。
彼女に使われ続けた道具達も、今は出番を静かに待つのみである。
そんなつかさの気持ちは淳平にもよく分かっている。
だが、このままいつまでも洋菓子を遠ざけていていいのか。
今は、少し強引にでも、彼女と洋菓子との関係を作るべきではないのか。
彼女の気持ちを察しケーキを持って行かないのか、それとも彼女の気持ちを察してこそケーキを持って行くのか。
どちらが本当につかさのためになるのか、なかなか答えは出なかった。
決断したのは今日の朝だ。
先日えいぞう会において発表した、高校時代に作成した映画。
そのメイキングシーンで、つかさは今では見せなくなってしまった笑顔で話していた。
それを今朝ふと見、そこに映るつかさの料理を作る姿を眺め気持ちは固まった。
そうだ、西野はこんなにも料理が好きだったじゃないか。
そう思うと、迷うことなどない。
もう一度、自分の夢と向き合って、自分のしたいことを思い出して欲しい。
つかさが本当にが目指していたのは日暮という存在だけではなく、彼の向こうにあるものだったはずだ。
つかさのマンションへの道を途中で折れ、ケーキ屋に向かう。
なかなか小綺麗な店で、外見上の印象は悪くない。
ここは外村に紹介されて知った店である。
というのも、5年間離れているうちに知らない店ばかりになってしまったからである。
そのドアを開け中にはいると、右手の方に垂れ幕の下がっているのが見える。
『ケーキ教室』と大きな文字、それに付随して時間帯の説明などである。
どうやら、ケーキ屋兼ケーキ教室の店らしい。
また、今現在もその教授時間に該当するらしく、奥の開いたドアの隙間から生徒と店長らしき先生が見えた。
生徒はなかなか熱心のようで、先生の行動を見よう見まねでなしていく。
ちょうどその時に、教室内から甘い、それでいて香ばしい匂いが漂ってきた。
生徒の喜び様から見て、恐らくスポンジ焼きなりなんなりがうまくいったのだろう。
活気の溢れた教室である。
ところで、淳平はその先生を見て、あまりいい印象を抱かなかった。
根拠となるものなどはないが、どこか裏がある気がしたのだ。
だからといって何かするわけでもなく、少しその様子を見ていただけではあるが。
それよりも、と、本来の目的であるケーキを受け取り、つかさの家へと足を進める。
時計を見ると、時間は予定通りだったから、外村がいるはずだ。
足取りは重い。
つかさの家へ行くのが億劫になる。
そのことは、いつものつかさの態度に理由があるのだけれども、淳平は自分を責めずにはいられない。
もとをただせば自分が西野から離れたせいだ、このように考えてしまうのである。
そんなことを言っていれば、つかさを置いて逝ってしまった日暮にも責任がある。
そもそも日暮とつかさを合わせたパティスリー鶴屋のおばあさんが悪い。
いや、料理を習うきっかけとなった淳平が悪い。
それよりも料理を教えてこなかったつかさの母だって・・・
結局答えなどは出ないのである。
追求には、妥協がついて回る。
例え何かの心理に至ったとしても、それは自分が『心理』と見なして妥協したに過ぎず、本当の意味での心理ではない。
だから人間は、どこかで妥協しなければいけない。
今の淳平も同じことである。
誰に責任があるのか、その追及をどこで妥協するのか。
いや、誰に妥協するのか。
一番簡単なのは、第三者に責任があると妥協することである。
淳平とつかさには直接的に関係することがなく、新たに人生を始めることが出来るだろう。
次に簡単なのは、つかさに責任があると妥協することである。
自分には責任がないのだから、相手を救おうと一心になれる。
一番難しいのは自分に責任があると妥協することである。
自分に非があると知り、誰が自由に行動を起こせるだろうか。
知らず知らずのうちに、目立つ行動を控えてしまう。
どれが良いというわけではない。
だが、淳平が一番難しいことを行っているのは事実である。
そして、次のことも、恐らく真実であろう。
『行い難ければ、得るもの多し。』
淳平は、最も難いことを行っているのである。
やがてマンションにたどり着くと、外村が立っていた。
「なんだよ、西野に中に入れてもらってれば良かったのに…」
「いや…そりゃ入れてくれるかもしれないけど……なぁ…?」
こちらに同意を求めるように呟いた。
確かに、今のつかさと外村が二人きりでいる画というのは想像できない。
昔ならあり得たことだ。
つかさが淳平を待っている。
そんなつかさに外村が必死で茶々を入れる。
恥ずかしそうにしながらも、必死で否定するつかさ。
容易に浮かぶ光景だ。
あんなに身近にいた映研の仲間達は、いつの間にこんなに離れてしまったのだろう。
そう思わずにいられなくなった。
「まあ・・・行くか」
まるで行きたくないかのように声をかける。
そんな自分に失望しながらも、その失望を消すために今から前に進むんだと気持ちを引き締めた。
「なあ、それなんだよ?」
と不意に外村が尋ねた。
指差しているのは、ケーキと反対の手に持たれた小さなカバンである。
「ああ、これは映画のディスクが入ってる。
0号…じゃないな…
0号以前だけど…とりあえず形にはなってるって状態の」
「なんでそんなの持ってんだ?」
「西野に見せようと思ってさ…」
妙に悲しげな目をする淳平。
そんな淳平を外村は静かに見つめていた。
幸いつかさは在宅であった。
「やっほー」
外村が先程とうってかわって明るい。
このあたりは彼らしいところであり、弱いところや苦しいところ、悩んでいるところは見せず、努めて明るく振る舞うのだ。
「淳平くんと外村くん・・・」
困惑の表情を浮かべるつかさ。
泉坂へ戻ってきて、何度彼女のこの顔を見ただろう。
いや、そんなことは構わない。
問題は、何度彼女の笑顔を見たかだ。
数えきれるだろうか…数えられないかもしれない。
0は、数えられない。
「西野、今日誕生日でしょ?
ほら、ケーキ持ってきた。
パーティしよ!」
外村にならい、淳平も明るく振る舞った。
恐らくそれはつかさも気付いたはずだ。
『淳平が無理をして明るく振る舞っている姿』は、彼女にどのように映るのだろうか。
好意で来てくれた友人を追い返すのはさすがに躊躇われたのか、つかさは中へ迎えてくれた。
外村は初めて入ったらしくキョロキョロと辺りを見回していた。
だが、持った感想は、初めてこの部屋を見たときの淳平と同じであったはずだ。
あれからものが増えたということはなく、無機質な空間である。
誕生日。
昔はその言葉を聞くだけでワクワクしていた。
淳平くんが祝ってくれる、そう思うといつでも笑みが湧いた。
絶対に忘れないといってくれたあの日の想い出を胸に、毎年毎年9月16日を遠目ながら楽しみにしていた。
いつの間にだろう。
誕生日がこんなにも味気ないものになったのは。
その問の答えなどは、考えるまでもない。
日暮が死んでからだ。
誕生日に限らず、ありとあらゆる特別だったはずのものが、普通以下になっている。
どんなに騒いでも気持ちが昂ぶることなどない。
いつからだろう。
胸のドキドキが消えたのは。
きっとあたしの胸の鼓動は、どんな機械よりも正確に時を刻んでいる。
そんな風に思ったこともある。
今もまさにそうだった。
目の前には淳平と外村がいて、昔のままに語り合っている。
大好きだった人と、その人の親友が笑いあう姿は、昔見たときに心を癒してくれたのに。
今ではどんなものより安っぽく儚く見える。
他愛のない雑談を交わしながら、彼らはつかさを祝った。
しかし、つかさの反応は薄かった。
外村が気を遣って、どのように話しかけても迷惑そうに流すのみだ。
ケーキには一口手をつけただけで、ぼーっと視線を中に泳がせている。
その不安定な視線が一つに定まったのは、外村の発言によるものだった。
「このケーキ…微妙じゃねぇ…?」
「微妙ってお前が薦めたケーキ屋だろうが。」
「いや…そうなんだけど…なんか前と味変わったなぁって…」
そして、その話はつかさへと向く。
「どう思う?つかさちゃんの方がうまく作れるんじゃない?」
その言葉を聞き、淳平は冷や汗をかいた。
これは、つかさの触れられたくない話なのだろうか。
日暮が亡くなって以来、菓子作りからは離れている。
甘い香りですら、日暮を連想させるのだから。
その状況で、今の外村の話はつかさの心を傷つけないだろうか?
意外にもつかさの反応は薄く、「どうだろうね」と一言呟いた。
無駄な心配だったかなと胸をなで下ろしたが、しかしその時につかさが立ち上がった。
「ごめんね、あたし今日用事があるの。
今日はありがとうね」
外村が、用事?と尋ねようとするが、その口を淳平がふさいだ。
そして、「そっかそっか、じゃあ俺たち帰んなきゃいけないな」と明るく言う。
その行動に、外村も驚いてはいたが、一番驚いていたのはつかさである。
いつもの淳平ならここでは引かない。
もっと自分を説得しに来ると思っていたのである。
確かに、いつもならば、つかさの拒否などを気にせず追求するはずだ。
淳平が引いたのには理由がある。
今日つかさと会い、話してみて、まだ時期ではないと感じたのである。
急いては事をし損じると思い、敢えて今日は引いた。
何かつかさに大きな変化があって欲しい。
自分がアクションを起こして変化を与えるべきだとも思う。
ただ、今はその手段が見つからないのだ。
その一つとして持ってきたのが今回撮った映画である。
これはつかさに一人で見て欲しいものだ。
だから、別れ際に渡そうと思っていた。
今自分が起こせるアクションは、別れ際に映画を渡すということだけである。
そのため、今は引き、映画を見たあとのつかさと向き合おうと考えたのである。
呆気にとられる外村を引き連れ帰る支度をする。
いいのかよ、と目で訴えているが、大丈夫だ、と目で返した。
帰り際に、思い出したように映像を渡した。
「これ…見て欲しい…。
今回撮ったんだ。
西野のために。」
口調が違う。
前回、映画を撮ると告げに来たときには、決して押しつけるような言い方はしなかった。
しかし、今回は、お願いだから見てくれという気持ちがにじみ出ている。
そのまま淳平達はは言葉数少なく帰っていった。
目標は達成したのだろう。
だが、うまくいくとは限らない。
最大の懸念は、つかさが映画を見てくれないことである。
渡した瞬間の表情もどこか浮かないものであった。
見てもらうことすらままならないならば、淳平に出来ることがなくなったしまうのだ。
案の定、つかさは映画を見る気はなかった。
押しつける口調が気に入らなかったなどという理由では、当然ない。
淳平の気持ちと、自分の気持ちに、本気で向き合うのが怖かったのだ。
自分の深層心理を知るのが怖かったのだ。
このまま、二人の溝は埋まらずに時が過ぎて行ってしまうのだろうか。
その溝に架け橋がおろされたのは偶然だっただろう。
つかさの心が動いたのは、くしくも決して動かなくした洋菓子であった。
淳平と外村を追い出すように帰してから、名目上外出しなければいけない気がし、外へ出た。
特に理由があるわけではないので、ただぶらぶらと歩くだけである。
ふと目にとまったのは、淳平がケーキを受け取ったケーキ屋である。
中のケーキ教室に人集りが出来ている。
正しくは、生徒が集まって相談しているのだった。
つかさは何故かそれが気になり、ケーキ屋の中へ入っていった。
つかさ自身気付いていないが、その行動が既に、自分の中に眠るパティシエへの気持ちを表していたのだろう。
「どうしたんですか…?」
一番外側にいる気弱そうな生徒に尋ねた。
とても焦っているのは遠目でも分かった。
「ここの先生がねぇ…どうも気の利かない人で…
なんども生徒といざこざがあったんだよねぇ…
それで今日それが爆発しちゃって。
『私なしでケーキが作れると思っているのですか!?』ってすごい剣幕で怒鳴ってね。
それであそこにいる人が『あんたなんていない方がよっぽど良いものが作れますよ!』って…」
把握。
これは先生にも生徒にもどちらも非があるように思えた。
要するに程度の低いケンカであり、それがたまたまケーキ教室で怒ったに過ぎない。
しかし、その状況を変えたのは、すぐそばに置いてあった紙切れであった。
「え…これ…」
紙切れを見た瞬間、つかさは驚きの表情を浮かべ、近くにいた生徒に尋ねた。
「これ…なんですか…」
「え…?ああこれは、先生が作ってくれたケーキの作り方の表だよ。
どうかしたのかい?」
「これ…こんなんじゃ…本当においしいケーキなんて作れないのに…」
小さく呟いた声は、その生徒にも聞こえなかったようである。
唇を噛みしめた。
パティシエは繊細な職業である。
技術的にはいうまでもないが、それは精神においても同様である。
客のことを考え、常に向上心を持って、自分の作る菓子には愛情を込めるべきなのである。
そのケーキ教室で作っていたのは、見た目のみ美しい、一口目のみおいしく錯覚させるものだった。
経費を浮かせ、適当に生徒を喜ばせ、それで良かったのだ。
これは、真のパティシエに対する冒涜である。
「ここ、借りられますか?」
また近くの婦人に尋ねる。
「え…?そりゃ今ならいいだろうけど…
あんた何する気だい?」
そばにあったエプロンをとり、パティシエの顔になる。
淳平が映画を創るときのように、プロにはプロの顔がある。
「あたしが作ります。」
数時間経って、ケーキ屋に店長が戻ってきた。
彼女は、きっと生徒達が申し訳なさそうに頭を下げると思っていたのだろう。
しかし、実際は大きく違った。
誰もいない調理場にケーキが一つ置かれている。
(ケーキ…?)
誰がこんな美しいケーキを作ったのだろうと訝り、近くによって眺める。
(!!!)
小さく乗ったチョコレートに、美しいサインが描かれている。
それはTとNが合わさり、筆記体のhのようになっているものだった。
パティシエでこのサインを知らない者が何人いるのだろうか。
(西野つかさ!?)
店長は慌てて店を飛び出し、辺りを見回すが、当然そこに西野つかさはいない。
西野つかさ。
2008年。
クープ・ド・モンド・ド・ラ・パティスリー。
優勝候補でありながら謎の途中退場をした、世界中で知られるパティシエである。
どれだけ遠ざけても、やはりパティシエの心はすぐそばにあった。
決して作らないと決めていたはずなのに、いつの間にか手は動いていた。
やめられない。
こんなに好きなんだ。
パティシエとして生きる自分が。
涙を瞳一杯にため、家路を向かう。
彼もこんな気持ちなのだろうか。
映画を創っているときは。
手渡された映画をふと見なければいけない気がした。
歯車が、音を立てて動き始めた。
ちなみに、2008年度クープ・ド・モンド・ド・ラ・パティスリー。
これはちょうど日暮が死んだ時の出来事であった。
彼女の人生は幸運への曲がり角と、悲しみへの曲がり角を間違えてしまったのかもしれない。
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