SS『サヨナラの後の・・・』 - 光 様
本当に西野のことが好きだったんだ。
・・もう、どうなるわけでもないけれど
12月の22日。極東の島国日本では、この日の夜が決して暖か
いということはなく、屋内にいても暖房無しでは十二分に寒い。
彼女―――西野つかさ―――は、そんな寒さの中、一人自宅の玄
関で立ち尽くしていた。様々な矛盾が、彼女の中で渦巻き、絡み、
混ざり合う。体が、ふわふわと浮かんでいるようで頼りなく、そう
かと思えば、次の瞬間ずっしりと重い。ぐるぐると目眩がしている
ような、それでいて陰鬱なほど意識がはっきりしているような。
外気とそう大差無い空気が、つかさの体温を確実に奪い、削いで
いく。しかし彼女は寒さなど、微塵も感じてはいない。本来なら、
体温の低下に伴い色を失うはずの唇の代わりに、彼女の目は、完全
に光を消していた。
その澄んだ瞳は、ここではないどこかを、今ではないいつかを見
つめていた。その先には、一人の人間がいた。高校入試の直前、初
めて自分の心に火を点けてくれた、初めて、何かに打ち込めること
の素晴しさを、人を幸せにすることの嬉しさを教えてくれた、そし
て何より、初めて自分を抑えきれないほどワクワクさせてくれた、
その男性が。
「ご飯・・・食べよ。」
つかさがポツリと呟き、キッチンに入っていく。彼女の呟きは、
誰にも向けずに発せられたものではない。自分自身に向けて、自分
を動かす理由を与えるために、彼女は敢えて口を開いたのだった。
エプロンをつけ、然るべき道具を持った彼女の手が、火にかけら
れた鍋の上で踊ると、あっという間に作業は終了した。出来上がっ
たそれをリビングに持っていき、黙々と食べ始める。一見すれば、
普通の食事に見えないことも無い。しかし彼女にとって今食べてい
るそれは、好物である必要も、盛り付け方が絶妙である必要もな
く、彼女の生存本能を満足させる最低限の栄養であれば、他の何で
ある必要も無い。食事ではなく、言わば充電。
一体いつ食べ終えたのか、その後何をしていたのか、恐らく、い
つまで経っても思い出せることは無いだろう。気が付けばつかさ
は、真っ暗な自分の部屋で膝を抱えて丸くなって座っていた。
(騙さないでよ)
つかさの中で、何かが頭をもたげ、つかさに囁きかける。
(もう、淳平君は帰っちゃったんだし、ここには誰もいない。アタ
シ一人しかいないんだもん)
つかさは、最後の時は、最高の笑顔で迎えたつもりだった。当
然、自分で造りだした笑顔など、心の底から湧き出てくる時のそれ
とは比べるまでも無いことを、彼女は知っている。だからこそ、そ
うだと知っているからこそ、自分で造れる中の、最高の笑顔を造っ
たのだった。恐らく今後増えることの無いであろう彼との思い出
に、少しでも笑顔の自分を多く存在させておきたくて。
しかし、今は・・・。
(素直になっちゃいなよ)
再びつかさの中で、つかさの“弱さ”が囁く。
限界だった。
今まで抑えてきた―――それを抑えていることに敢えて気付かな
い様にしていた―――涙が、つかさの目から溢れ、頬を伝う。
留めておくのは、そう難しいことではなかったが、一度出てしま
うと、止めることはできなかった。ただひたすら声を、肩を震わ
せ、涙の出るに任せ、自然に止まるのを待つより他、無かった。
あたしだって、本当は、と、つかさは思う。無論彼女も、本気で
こうなることを望みはしなかった。心のどこかに、あの言葉を言っ
てしまうのを、最後の一瞬まで嫌がっている自分が、確かに存在し
ていた。
しかしつかさは知ってしまった。自分が淳平の心を独占できてい
ないことを。彼の心に、まだ他の誰かが存在していることを。
どのくらい泣いていたのだろうか。ふと、つかさの耳に話し声が
聞こえてくる。次いで、玄関の鍵を開ける音。
つかさは、パッと顔を上げた。改めて両親の帰宅の音を聞くと、
慌ててベッドに潜り込み、そのまま布団を頭まで被って、じっとし
ていた。今顔を合わせれば、涙のわけを聞かれてしまう。
「ただいまー。」
「つかさ?帰ったわよ?」
つかさの両親が声をかけるが、まるで返事が返ってくる様子がな
い。明かりが点いていたのでリビングにいるかと思いきや、そこに
は確かにつかさが使ったと思われる食器があったが、肝心要の本人
の姿が見えない。つかさの母は些か不審に感じ、静かに階段を上が
る。
「つかさ?」
部屋の前で立ち止まって声をかけ、ノックをしてからつかさの
部屋に入った。部屋の中は膨れ上がるような闇に覆われていたが、入
り口から差し込む光で、ベッドの膨らみを確認することができた。
「寝てるの?つか・・・」
つかさの母がベッドに近づきながら話しかけ、しかし、途中で口
をつぐむ。ほんの一瞬、何もせずじっとしていたかと思うと、その
ままつかさの部屋を後にした。
扉を、音を立てないように閉め、ふぅっとため息をつく。
(洗っていない夕飯の時の食器は一人分。それなのに、洗い立ての
お皿とフォークは二つづつ。そして・・・、)
つかさの母は背中越しにつかさの部屋を見、来た時と同様、静か
に階段を下りていった。
「つかさは?」
リビングに戻るなり聞いてくる夫の問いに、つかさの母は少し間
を挟んで、
「えぇ、寝ちゃってたみたいで・・・。」
と答えた。
「・・・?何か、あったのか?」
微妙な間の空き方に、つかさの父がやや心配そうに聞く。つかさ
の母は少し考え込むようにして、言った。
「いいえ、何も・・・。ただ、」
ふと、天井を、その先にあるつかさの部屋を見上げ、歌うように
言う。
「私たちの可愛い娘が・・・、また少し大人になっただけ・・・」
つかさは震えていた。ベッドの中で丸くなり、唇を噛み締めて。
(お母さん・・・気付いてたんだ・・)
母親が近づいてきて、思わず嗚咽を漏らしてしまった時、つかさ
は詰問される覚悟を決めた。しかし実際、彼女の母親は何事もなか
ったかのように立ち去ってくれた。つかさはまた気付いてしまっ
た。今日起きた事を、涙の理由を、その全てを母親に、悟られてし
まったことを。
泣き声はいつしか収まり、つかさは深く眠ってしまっていた。目
尻に光の粒を湛え、寂しさに打ちひしがれた赤ん坊のように小さく
なって。
しかし、つかさは知らない。あと2,3ヶ月もすれば、再び淳平
と接点ができることを。
つかさは知らない。自分自身が、彼の大きな助けとなり、また、自分も同じ様に大きく助けられることを。来年の夏、彼の隣で、彼の夢に巻き込まれることができることを。
つかさは知らない。
まだ、運命が二人を、完全には隔てていないことを。
END