風花-かざばな- -西野 加奈 様
いつもどおり見上げたはずなのに。
いつもと違う笑い方を、していた。
風花
立ち尽くす足元には雪の後。
喧騒に揺れる髪が、こごえそうなほど震えている。
目の前を通り過ぎる人の間から見える彼女は、小さく俯いている。
羽織っているジャケットのポケットに手を突っ込んだまま。
雪を小さく、つま先で蹴って。
出していた片手で、彼女は毛糸のニット帽を被りなおす。
その帽子には、真っ白な薄い布が、覆いかぶさっていた。
僕は走ってそこへ向かわなければならないのに、足は動かない。
白い息を吐き出して、唇を閉じる。
寒さの所為ではなかった。
唯は綺麗だ。そして可愛い。
大きな瞳が曇ることなど想像もつかないほど、彼女は綺麗だった。
黒曜石が埋め込まれたみたいな瞳に、真っ黒な短い髪。
肩まで伸びた真っ直ぐなそれと同じように、秘められた意思。
いつかその意思に、さされたことがあった。
自分が迎えに行ったはずなのに、彼女が僕を迎えに来てくれたみたいだった。
高校二年の合宿帰り。疲れた後。
助けて欲しい、と。彼女が手紙を何通も書いている間に、僕はカメラを持って笑っていた。
帰りの電車の中では、顔を上げると西野がいた。
彼女は親の、その時は不条理だと思った言葉に、怒鳴りつけられていた。
手紙を受け取り向かった先に、彼女はいなくて。
友人の家を探して、見つけて。
家に帰ろうと電車に乗った。
家とは反対側へ向かう電車に、彼女は乗り込んだ。
僕は彼女の味方でずっといようと、思っていた。
合宿に行くそれよりも前。最初から。
ちいさな、恋心も知らない子供の頃から。
それすら知らない以前から。
「ごめんっ、唯」
古びた感じの本屋の前で、彼女は顔を上げる。
幼さを残した顔を向ける。
短い黒髪が揺れた。
「遅いよ、じゅんぺい」
「悪かった」
頬を膨らせながら、それでも笑顔を浮かべる。
遅れたり理由が情けなくて、そこから目線を外した。
「ぼうし、雪被っちゃってる。ごめんな。早くどこか入ろう」
帽子の上の雪をかるく手で払ってから、僕は出ている方の手を握った。
冷たさに驚く。彼女は、笑っている。
「へへ、じゅんぺーの手、あったかいね」
「お前が冷たすぎるんだよ」
「そう?それでどこ行こっか」
「いまイルミネーションが凄いんだって、テレビで言ってた気がするけど」
時計を確認する。
十九時。
外は暗いが、星は人々の明るさで隠されていて見えなかった。
彼女は頷く。
「あ、でも寒くないか?」
「ジャケット着てるから平気。それよりも淳平の格好の方が寒そうだよ」
「おっ、おれはいいの」
慌てていてジャケットを忘れたなんて、とてもいえなくて。
掴んでいた手を放して、歩いた。
歩いていたが、ニ、三歩のところでトレーナーのパーカーが引っ張られた。
きっと彼女の顔中に、悪戯っぽい笑みが今、散りばめられているだろう。
街中を彩るネオンが、通り過ぎていく。
振り返った先には、小さな彼女。
「これ。唯の帽子貸してあげる」
自らの頭を包んでいたぼうしを外すと、僕の頭の上に被せた。
少し窮屈だったが、それでも暖かい。
「でも、それじゃ唯が寒いだろ」
「いいよ。どうせ淳平のことだから、急いでて着てくるの忘れたんでしょ」
「うっ。図星、です」
「何年見てきてると思ってんの。唯を甘く見ちゃだめだよ」
そういって僕の頬を伝う、彼女の掌が冷たく。
小さく、心臓が締め付けられた。
お前の方が、と僕も彼女の頬に手を持っていく。
つめたい。
だから抱き締めてあげたかった。けれど。
映画では周りなど見向きもせずに愛しい彼女を抱き締めるのだろうと思ったが、自分にはとてもできない。
乾ききった彼女の唇が目の前にあっても。
「じゅんぺい?」
「やっぱりお店入ろうか。どこか喫茶店でも」
「それより唯の家いかない?」
「えっ唯の……?」
「あ、もちろん実家じゃないよ。今住んでるところ」
「わ、分かってるさ。でも」
白い息が、玉になって。
空を浮遊する姿は、雪だるまが遊んでいるように見えて。
どうせ雪が降るならこのまま積もってくれればいいのに、と願わずにはいられなかった。
「なんだかんだ言って一度か二度くらいしか来てくれたことないし、この前の受賞祝いも兼ねてさ。
たまには唯の手作り料理でも食べてお祝いしちゃる」
料理はいつも西野のイメージだった。
料理している時の後姿が凄く好きで、背中ごしだったけれど楽しそうに。
「今西野さんのこと考えた?」
「えっ。あ、いや」
「やっぱりぃ。でもちょっと分かってたからいいのだ」
唯は綺麗だ。
整った輪郭をいっているのではなく。
その、瞳が。
僕をひきつける。触れてみたくなる。
どうしようもない愛しさではない。
耐え切れない衝動でもない。
「ところで来るの、来ないの?」
「行くよ。料理楽しみにしなきゃな」
「ほんとっ?わぁい、淳平がきてくれる」
それなのに現実、今僕は触れている。
自分の所為で凍った唇の腹に。
彼女は不思議そうに、僕を何度も目線を向けては首を傾けている。
その様子に可笑しくて、くっと笑ってしまった。
「まるで子供だなあ、唯」
「むうーっ。唯もうすぐ高三だよ?大人だよ?」
「そういうこと言うやつが子供だって言うんだよな」
言ってから間髪いれずに触れたそれは、僕のそれも包み込む。
抵抗はなかった。幼馴染という壁はとうに消えていた。
幼い彼女を、包みたかったはずなのに。逆に包み込まれていた。
蛍火が舞う。
青い、筋が走って。街中で暴れている。
舌先が触れると、慌てて彼女は自分から離れた。
小さく肩を震わせて、立っている。
寒さの所為だと、思った。
「寒いのか」
僕は尋ねる。
彼女は反応を返さない。
「唯?」
「寒くなんかないよっ。それより早く行くからね」
早足で、歩を進める彼女。
触れた背中はつめたかった。
だけど落ちてくる雪はそれには全く触れようとしない。
風に乗って、ひらひらと目の前に舞い降りる。
雪は白で、空が青くないと存在すらわからないだろう。
地面に衝突する間もなく、それはたちまち光に解けてしまった。
僕は小さく、やはり笑う。
「待てよ、唯っ。おれも行くから」
前に進むことだけが、僕らを繋いでいる。
+++ END +++